豆ご飯

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「お母さん、どうして豆ご飯なん」 私はふて腐れながら、玄関の扉を開けた。部活の帰り、お腹と背中がくっつく位の空腹で、たどり着いた我が家から香ってきたのは、私の大嫌いな豆ご飯の香りだった。母はこの時期いつも豆ご飯を炊く。私が好きだろうが、嫌いだろうがお構いなしだ。 「香歩はすごいな。家に入る前から、晩ご飯が何か臭いで当てるんよ。この前なんて、卵焼いてただけで分かったんやから」 茶化す母に姉の由香が沢庵をつまみながら応える。 「香歩は、食い意地張ってるから。昔から」 姉は今年短大を卒業し地元の銀行に就職した。自立すると宣言し一人暮らしを始めたわりに、ちょくちょく晩ご飯だけ食べに帰ってくる。 「お姉ちゃんの方が、食い意地張ってるやろ。いっつも私のアイス勝手に食べるし」 と言い残し、鞄とテニスラケットを置きに2階の自分の部屋へ上がる。私は高校3年生、次の大会で負ければ即引退、あとは地獄の受験勉強が待っている。 ふと窓から裏の伊坂さん家の荒れ果てた庭が見えた。この辺りは、高齢化が進み空き家が目立つ。町内会では高齢者ばかりの中、若手の母は草抜きや溝掃除が頻繁に回ってくると愚痴っていた。伊坂さん家も、数年前から空き家になっている。私は豆ご飯の香りの中、大柄な伊坂さんと、その娘の咲子さんを思い出していた。時に香りは時間を遡り、忘れていた記憶を思い起こさせる。 私は一瞬、小学生のある春の日に戻っていた。一面に広がる、目に鮮やかな黄緑。丸々したサヤエンドウが鈴生りになっている。 「なんぼでも、持って帰り」 と伊坂さんの声がした。嬉しくなった私は、サヤエンドウを夢中で採っている。庭には豆ご飯の香りがが漂っている。甲高い女性の悲鳴。とっさに咲子さんの声だと思った。少しだけ空いた引き戸の玄関を覗く。甦る嫌悪感。 うららかな春の庭とは、対照的な感情。しかし、嫌悪感の理由は思い出せない。いったい何があっんだろう。私のお腹が「グー」っと悲鳴を上げた。何よりも食欲が勝る育ち盛り。階段をかけ下りると、豆ご飯をたいらげた、エンドウ豆は全て取り除き塩気のあるご飯だけを。 次の日も、姉は晩ご飯を食べに来ていた。 「食費入れてもらわな。割りに合わんな」 と言いながらも嬉しそうに母は豚肉の生姜焼きを作っていた。父はいつも仕事で帰りが遅い。何だかんだ言っても、女三人寄れば賑わしい夕食になる。 「なぁ、お姉ちゃん。伊坂さんのこと覚えてる?」 生姜焼きを白ご飯に乗せ、口に運びながら私は聞いた。甘いタレがご飯と絶妙に合わさって食欲をそそる。 「裏の伊坂さん?庭いっぱい野菜育ててたな。家の前を通ったら『持っていきよ』ってトマトとか、キュウリとかよくくれた、優しいおじいさんって感じやったな。でも、香歩は伊坂さんのこと嫌ってたよな」 とサラダのプチトマトを摘まみながら姉が言った。続けて母が 「子煩悩な優しい人やったのに。きっと伊坂さんが体が大きいから嫌いやったんちゃう。商店街のサンタクロースの大きな風船人形、香歩怖がって大泣きしとったから」 と笑った。 「またその話。それは赤ちゃんの時の話やろ」 私はむくれて言った。 昨日の甦った記憶を思い出し、伊坂さんが体が大きいから嫌いだったわけではないと思った。それなら、私が伊坂さんを嫌いな理由は? 数日後、不穏な記憶の原因が判明した。それは、姉の同級生で、今は町役場勤務の健太郎、通称『健ちゃん』が夕食を食べに来ていた時だった。 母親同士が幼馴染だった為、おむつの頃から兄弟のように一緒に育ち、3人でよく遊んだ。今でも健ちゃんは時々うちに遊びに来る。私は密かに健ちゃんは姉を好きなのではないかと思っている。 その日は、漁師町らしく新鮮な魚が格安で販売される、月に一度の『とれとれ市』の日だった。我が家ではこの日を『魚の日』と呼び晩ご飯は決まって魚料理だ。母は、お客さんが来ると、料理に気合いが入るらしくまだキッチンで小ぶりのアジを捌いている。 母は料理が好きだ。高校卒業後、東京の有名な調理師学校へ行きたいと、両親に頼んだが、女は結婚し子供を育てるのが一番大切だと言われそのまま地元の給食センターに就職した。数年で結婚退職しそれからはずっと専業主婦だ。私には『やりたいことを見つけて好きなように生きなさい』と言う。しかし、私にはその『好きな事』が見つからない。次の三者面談までに進路希望を出さなければいけないのに。 健ちゃんは、サワラの刺身にワサビを付けながら言った 「伊坂さんの娘さん、失踪したって噂があったよな」 続けて姉が 「そうそう。今日ゆきちゃんとお昼食べてた時、聞いたんやけど。娘さん、もともと仕事もせずに家に引きこもってたから、いつ居なくなったか誰も解らなくって、伊坂さんが殺して庭に埋めたって噂が流れてたって」 ゆきちゃんとは、姉の短大からの同級生で同じ銀行に勤めている。私たちはとても狭いコミュニティーの中で生きている。 「確かその噂の元は、香歩だったような」 と記憶を探るように健ちゃんが言った。私は身に覚えの無い言い掛りにびっくりした。私たち3人は、お互いの記憶を繋ぎ合わせ始めた。 健ちゃんが記憶を探ぐり当てたように『あぁ』と言って話し出した。 「確か、俺が四年生だったから、香歩は一年生だったと思う。公園で遊んだ帰り何人かと自転車で由香ちゃんの家の前を通ったら香歩が泣きじゃくってた。だから俺、どうしたって聞いたんよ」 健ちゃんは私の事は呼び捨てにするが、姉の事はちゃん付けで呼ぶ。それも健ちゃんが姉を好きなのではないかと思う理由の一つだ。 「そしたら?」 姉は、興味津々で身を乗り出して聞いている。ノーメイクに、ヨレヨレの部屋着姿で健ちゃんと話している姉からは、恋のオーラは一切感じられない。残念、健太郎。 「そしたら、おじさんが咲子さんを殺したって泣きじゃくってた。結局、俺は本当かどうか分からない事を言い触らすのはよくないから、誰にも言うなよって言って家に送ったんやけどね」 姉が目を見開いて言った。 「あー、思い出した。香歩サヤエンドウをいっぱい抱えて帰ってきて、ワンワン泣いてたことあったわ。理由聞いても、伊坂さん嫌いって言うだけで」 「きっとあの中の誰かが言ったんやな。俺は口止めしたのに」 と健ちゃんが同級生の顔を思い浮かべるように言った。 その時 「伊坂の咲子ちゃんは、偉い漫画家さんになってるんよ。この前の石原琢磨のドラマ、咲子ちゃんの漫画が原作らしいわ」 と揚げたてのアジフライがのった皿を差し出しながら母が言った。 「えー。そうなん。私、石原琢磨好き」 と姉が悲鳴のような声で反応した。 石原琢磨は、少し前に一世を風靡したアイドルグループの一人で今は俳優としてドラマで時々見掛ける。私は演技が大袈裟でなので、あまり好きではない。 「伊坂さんも娘さんと一緒に東京で住んでるらしいわ。高齢になって都会で暮らすのはいろいろ大変やと思うけどな」 母は全ての料理を作り終わって、食卓に付いた。机の上には、サワラの刺身、アジフライ、筍とイカの煮物、生ワカメの酢の物……そしてまた豆ご飯。 母の話では、咲子さんは早くに母親を亡くし、父親と二人暮らし。高校を卒業してから、家にこもって漫画を書いていたらしい。だから、近所の人たちは引きこもりだと思っていたようだ。咲子さんの漫画の連載が決り、二人は東京へ引っ越したそうだ。 では、私の嫌悪感の記憶は何だったんだろう。伊坂さんを嫌いになった理由。私は母が何か覚えていないか聞いてみた。 「あの日な、母さんも香歩の様子がおかしいから気になって、サヤエンドウのお礼に託つけて伊坂さんの家に行ってみたんよ。そしたら……」 母の話では、咲子さんが大きなハマチを捌いていて、手を切ったらしい。慌てて伊坂さんが止血したけど咲子さんの血と、魚の血がそこら辺に飛び散ってしまっていた。それを見た私が泣きながら出て行ったようだが、咲子さんの手当てに手間取って追いかけられなかったらしい。伊坂さんは怖い思いをさせてすまなかったと、謝っていたようだ。 姉は 「なーんだ、香歩の早とちりかぁ。香歩ちゃんのお騒がせ」 とまた私を子供扱いした。その日の記憶が断片的にしか無い私には、反論することも肯定することもできなかったが、恐ろしい殺人事件を目撃したのではなかったと思うと、少しホッとした。 私は、一粒エンドウ豆を口に運んだ。噛むと豆の皮と中身の柔らかい部分に別れ青臭い香りが口いっぱい広がった。やっぱり嫌いだ。 咲子さんが自首したニュースが流れたのは、私が東京の大学を卒業し、地元には戻らずそのままま就職した、その春だった。 姉から第二子妊娠報告の電話があった。ビデオ通話に切り替えた画面では『パパ』と呼ばれるようになった健ちゃんが、長男の慎太郎、通称『慎ちゃん』に豆ご飯を食べさせながら手を振っている。今年も母は豆ご飯を炊いたようだ。姉は『今こんな感じ』と言って警察が掘り返した伊坂さん家の庭を写した。ここに伊坂さんは眠っていたのだ。私が目撃したのは、魚の血でも、咲子さんの血でも無く、伊坂さんの血だったのだろうか。警察は咲子さんの単独犯行として捜査している。 あれから誰も母にその日の事を問い直していない。 私は、石原琢磨主演ドラマの原作漫画を古本屋で購入した。俳優を目指し上京しようとする主人公が、反対する母親を誤って殺してしまい、家の庭に埋める。周囲には母を連れて上京すると嘘をつくが、主人公が有名になっていくたび殺人がばれる恐怖と、母を殺してしまった後悔で精神を病むというストーリーだった。 私は母の炊いた豆ご飯が無償に食べたくなった。次の週末、実家へ帰省しようと決めた。
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