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土曜日の午後、サラリーマンの鈴木は4歳になる息子を連れて公園に来ていた。
妻に着せられた黄色のレインコートを着た息子は偶然居合わせた公園近くに住む兄妹と砂場で遊んでいる。
ベンチに座り本を読んでいた鈴木は雨粒に気づき、そそくさと本を鞄にしまうと立て掛けておいた黒い傘をさして立ち上がった。
帰ろうか?と息子に声を掛けようとしたが、全くその気がないことを息子の背中に感じクスノキの下に自分の身を移した。
雨音が知らせたのか息子と砂場で遊ぶ兄妹の母親が公園にやってきて二人の名前を呼ぶ。
「ほら風邪をひくわよ、まだ遊びたいんなら傘をさしなさい」
兄の方は紺色の小さな傘をさし始めたが、妹は母親の言葉など聞こえないふりをして黄色いレインコートを着た息子と遊び続けている。
母親は砂場を囲む柵越しに傘をさすか、それとももう家に帰るかを選択させようとしているが女の子は母親と何かがあったのかと鈴木が心配になるほどに頑なに振り向こうともしない。
やがて少し雨の勢いが増し始め、母親はクスノキの下にいる鈴木に一礼をして砂場に入り女の子を抱き上げ公園の出口へと向かっていった。
公園から泣き叫ぶ妹の声が雨音の中に遠ざかっていった。
少し驚いた表情を浮かべる息子の横で紺色の小さな傘を片手に握りしめた兄は一瞬の騒動をもう忘れてしまったかのように遊び続ける。
鈴木は改めて公園を見渡してみた。
ブランコではアメリカ人らしき親子が遊んでいる。
国際色豊かなことは、この辺りでは珍しいことではない。
降り出した雨にアメリカ人の両親はブランコに大きなテント屋根を取り付け始めた。
最近はそんな便利なものもあるのかと鈴木は感心してしばらく眺めていた。
アメリカ人の父親と母親はまるで雨を楽しみに待っていたかのように夫婦で協力してブランコの支柱に撥水性の優れた布を張っていく。
途中、父親が鈴木に気づいて挨拶のウィンクを送った。
雨から守られたブランコで女の子は開放感いっぱいに勢いよく足を振る。
ジャングルジムに目を向けるとアジアの4人の男の子たちがレインコートも着ずに、雨などお構いなしで鬼ごっこをしているようだ。
たくましいなあと鈴木が眺めていると一人の男の子がジャングルジムの中段からドスンと地面に落ちた。
落ちた男の子は一瞬照れくさそうにしたがすぐに立ち上がって仲間たちを見上げる。
ジャングルジムの上段から3人の男の子たちが心配そうに見守ったが、落ちた子どもの元気な様子を見て今度は大きな声で笑った。
こうして片手に黒い傘を持たなければならなくなった鈴木は本をゆっくり読むこともできず、午後の公園の出来事をただ眺めていたのである。
ブランコで遊んでいた女の子が砂場の方に駆け出した。
アメリカ人の両親は女の子の手を捕まえてアウトドアで使う頑丈なレインコートを着せる。
両親と同じ格好の良いデザインのレインコートに身をまとった女の子は砂場を囲む柵をすり抜けていった。
息子たちも笑顔でアメリカ人の女の子を受け入れ一緒に遊び始めた。
鈴木はアメリカ人の親子に一礼をして空を見上げた。
まだ当分の間、雨はあがりそうにない。
それにしても傘を持ち続けるというのはなんとも窮屈なことだ。
片手の自由を奪われ、腕時計を見るのにも不便極まりない。
レインコートを着た息子とアメリカ人の女の子は両手を使って砂場で遊んでいる一方で、鈴木は紺色の傘をさした男の子のことが同情を込めて不憫に感じた。
ずっと片手で傘をさしていたら思い存分遊べないよな、と紺色の傘の男の子に言ってあげたかった。
そんなことを考えている間にも雨の勢いは少しずつ強くなっていった。
傘だけでは防ぎきれないと感じた鈴木は背中のリュックサックから妻が入れておいてくれたレインコートを取り出そうとした。
雨を防ぎながらリュックサックから腕を解くだけでも時間が掛かってしまう。
傘をさしながら雨に濡れることなくレインコートを着ることなど容易なことではないと鈴木は実感し、もうしばらく雨足を見極めることにした。
ジャングルジムで遊んでいた4人組の男の子が砂場へと押し寄せる。
息子たちは手狭ながらも砂場の柵を越えてやってきた元気の良い4人を迎え入れる。
混雑した砂場の中で紺色の傘を片手に持った男の子はさらに遊びにくそうだ。
それでもまだこの砂場で遊び続けるのは、まるで母親に連れていかれた妹の分まで遊んでやろうという心意気があるようにも鈴木は感じたのだった。
そんな鈴木の様子を少し離れた場所で少し前から眺めていた妻が傘をさしてクスノキの下にやってきた。
「レインコート着たいんでしょ?」
その妻の言葉に鈴木は自分の黒い傘を閉じクスノキの幹に立て掛けた。
今までの不自由さが嘘だったように妻の傘の下で容易にレインコートに腕を通すことができた。
大きな伸びをした後、鈴木は妻に言った。
「サラリーマンはそろそろ卒業しようかと思うよ」
妻は驚きもせず窮屈な砂場で遊ぶ黄色いレインコートを着た息子を見ていた。
「傘は手放そうと思う」
「そうね、私もあの子が自由に遊べるようにレインコートを着せたんだもんね」
鈴木は妻に笑顔で感謝を表わして、息子のように自分も生き抜いていくのだと決意したように空を見上げ玉石混淆とした砂場へと歩きだした。
やはりまだ当分の間、この雨はあがりそうにない。
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