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EPILOGUE
椿の花が世界を赤く染めていた。
見上げた空は青かった。
かつて穴の中から見上げた、透き通った丸い空よりももっと綺麗に鮮明で。
『おかえり』
懐かしい声がして、顔を上げる。オレはようやく空気のにおいと味を感じた。冬の冷気が頬を刺す。いつからこうして、ここに居たんだろうか。あまりの眩しさに、生理的な涙が溢れ、つんと目頭が痛かった。
目を一度閉じて、乾いた指先でごしごしと目をこする。
もう一度当たりを見渡し、思わず数回瞬いた。
(なんだ、この色)
世界は丁寧に一枚のヴェールを剥がしてそこに在り、オレは一人、あの【椿】の神社に立っていた。
ぎゅうと目を閉じ、開き、もう一度視界を認識する。まるで見たこともない景色のように鮮やかな色彩に驚き、思わず息をのむ。空も、花も、地面も、ああ、まるですべてが原色だ。空の青が瞼に刺さる。そうだ、少年の頃に見た景色は、こんな風に生命の息吹に溢れ、明るくきらきらとしていた。オレはいつからそれを忘れて生きてきたのだろうか。
我を忘れたように瞼をしばしばと瞬かせ、オレはしばらく呆然と立ち尽くしていた。
鬼の生気を吸い取り尽くした椿の花は、まるで切り取られたように全て地に落ち、赤い絨毯のように石畳と土を血で濡らしていた。茂みに残る、生きた椿はもうどこにも存在しない。それは何かを象徴しているかのようで。
(逝ったのか)
たとえ鮮明な記憶であろうと、所持するのが人ひとりであるならば、他人には証明できないということだろう。彼のことはもう誰も知らない。オレが語らない限り、誰にも思い出されることもない。
(【椿】……)
オレは一歩踏み出し、厚い花弁の肉を踏み散らした。ぐしゃり、ぐしゃり。まるで命を踏み躙るように、続く赤い赤い石畳。彼は最後笑っていた。ようやく、本当の終焉にたどり着けたのだ。そして、この神社にはもう神はいないのだ。
胸の痛みもなく、瞳はクリアで、不思議と足取りも軽く。
おかしいな、オレはあのまま『消える』はずじゃなかったか?
ふと考え、そして、はたと気づく。
違和感を覚えた。これは本当にオレ? それとも……、
(……?)
これは黄泉がえり、生まれ変わった鬼の話。
(何だ、そうか)
ジグソーパズルのピースがぴたりと符合するように、オレはその時合点した。
鳥居の向こうから、人影が二つ。女の子だな、と思ったら「兄貴!」と呼び掛けてくる。二人とも部屋着にサンダル履きで、気の緩んだ格好をしている。なんだ、あいつらか。
「おー」
オレは片手をあげ、笑いかけた。上の妹の怯んだような挙動におかしさがこみ上げる。
「なんだよ、二人して」
上の妹が歩みを止め、俺を遠巻きに見ながら小首を傾げる。下の妹はいつもの胡乱な目つきでオレを睨みつけた。
「え? 兄貴?」
「どうしたの? 何か変なもんでも食べた?」
「……なにが?」
足早に近づき、俺は二人の横に並ぶ。女子大生と女子高生。いつもはオレを虐げ冷たくあしらう二人だけど、一晩帰らなかったくらいでちゃんとオレを探しに来てくれるんだからまあかわいいもんだ。
「心配させたね、ごめん」
にっこりと笑いかけると、下の妹がきょとんとした顔をした。
「なに、兄貴、いつもと雰囲気が違うような……」
「変わんないよ、家、帰ろうか」
「えー? 何、心配損じゃん」
「ただの朝帰りかよ~」
「ごめんごめん」
スニーカーで踏みつぶす椿の花から血のような汁がにじみ出る。妹二人はまるでキツネにつままれたような顔を見合わせたが、別に不満はなさそうだった。三人で並んで自宅へと向かう。
俺はつるりと頬を撫でた。
ああ、なんて、『しあわせ』な。
流れた血の分だけ、人は何かを得るのだろう。
それを呪いとも、願いとも言う。
そして、奇跡だとも。
笑いのかけらのようなものがさざ波のように胸中から湧き上がってきた。思わず駆け出したくなるのを堪える。自然に笑みが頬を綻ばせる。邪魔な前髪を大きく掻き上げ、頭上に広がる綺麗な澄んだ空を見上げた。
損なわれた魂は、このままでは生きていけない。
一度死んで【椿】の魂で補修された【芦谷直花】の魂は、【椿】を失っては存在できないはずだった。
(でも、その部分を補うのは、別の魂でも良かったってことだね、……直花)
この世界はなんて、気分が良いんだろう。足を止める。【妹たち】は先へと歩いて行き、俺は一人神社を振り返った。
紅い、紅い、椿の花の輪舞の中で。
俺の言葉が、喉を鳴らした。
「……やっと、ひとつになれたね」
終
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