一の花

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***  洗面所の曇った鏡の中には冴えない若い男がいる。  数か月間散髪に行かず、首を覆うほど伸びた色素の薄い髪。前髪の下から除く瞳に生気は薄く、生白い肌が病的にすら見える。肩幅も狭く、身長もごく普通。筋肉はほとんどなく、見るからに草食系の印象を与える。  これが、オレ、芦屋(あしや)直花(なおか)という男の姿だ。人に印象というほどの印象も与えることはない。ただの、つまらない陰気な人間。  顔立ちは悪くないのだから、もっと自信持てば、と母は言う。確かに母も妹も美人の部類だが、自分の顔の等級なんて本人にはわからない。女っぽい顔立ちだとたまに言われるから、男性的な魅力には欠けているんじゃないかな。女子にモテた記憶は一切ない。  何より、いろんな理由で今オレは人生に絶望していて、容姿がどうのというよりもただ自信がなくて、ここ最近はずっと俯き加減に生きている。できる限り顔を隠していたかった。  暗い洗面所の中で、着古した長袖のチェックシャツの上から毛玉の付いたグレーのカーデを着る。履いているジーパンだって、洗濯機で何度も洗われたせいで、すでに色褪せて久しい。  鏡の中のみすぼらしい自分をずっと眺めていられるほど物好きではない。外出しても奇妙じゃない程度に手早く髪の乱れを手で整えると、オレは玄関のドアへと向かって小さな部屋を突っ切った。  すれ違った妹が、オレを指差しながらオレではなく母へと怒鳴る。 「おかあさーん! 兄貴がまた逃げるぅ!」 「ちょっと、直花! あんたまたどこ行くの! しなきゃいけないこと何もしてないのに!」 「兄貴のクズ! なんでこんな中途半端にすんの? ビーズ床にいっぱい飛び散ってんじゃん!」  背中に投げ掛けられる声をシャットアウトするように、オレはアパートの薄いドアを大きな音を立てて閉めた。苛立ちが、あまり立派でない建物全体に響き渡る。  スニーカーを引っ掛けて、金属板の階段を駆け降りた。毎日のように聞く母の怒声と妹二人からの嘲りに疲れ切っていた。慣れない家事や母の内職の手伝いを頼まれても、まともに出来ないしへこむだけ。 (実家にいても、居場所なんてないのに……)  何で戻ってきてしまったんだろう。  ぼんやりと進学した先の大学生活には、約三年近い葛藤の上挫折し、先月実家に戻った。勉強についていけなかったんだ。誰の期待にも応えられなかった。  できるだけまじめに生きてきたつもりだったのに、自分でも気付かぬうちに転がり落ちていたのだった。これからの目途なんて何も立っていない。もう子供じゃないから親の干渉にはただただ疲れる。それでも一人では生きていけない。情けなくてどうしようもない、二十一歳。 「はあ……」  溜息は白い色を乗せて、冬の空気に溶けて行く。曇天からチラチラと雪が舞い始めた。これから夕方になる。きっと寒くなる一方だろう。 (帰りたくないなぁ……)  首を竦めて、少し先に見える山の稜線をオレは睨みつけた。 (このへん、ほんっと田舎だよな……)  いや、田舎と言うよりは、郊外と言った方が正しいかも知れない。昔ながらの古びた家並みと、新しい住宅の混ざるベッドタウン。いつの間にか薄汚い町に成り下がっている。綺麗に完成された都会に見慣れたせいだろうか。数年離れて戻ってきた故郷では、薄汚さばかりが目に付いた。  オレは結局どこに行っても馴染めない。 (駅の本屋にでも行って、漫画でも立ち読みしようか……)  雪でちらつく視界の中、家路を急ぐサラリーマンとすれ違い、公園ではしゃぐ子供の手を引く母親の声を聞き、宅配便の若者が忙しそうに荷物を運んでいるコンビニの前を行く。  胸が息苦しさに疼いた。  今度は数人の小学生達とすれ違う。ぎゃあぎゃあと訳の分からない言い合いをしながら、拾った棒切れを振り回している。あんな風に誰かとこの町で過ごした記憶すら、オレにはない。友達が居なかったのかも知れない。小学五年生くらいより前のことを、オレはあまり覚えていない。昔から現実に執着がないのが原因かも知れない。  過去も現在もおそらく未来も、オレの前だけで色褪せている。世界の歯車は正常に作動していて、オレだけが爪はじきにされている。 (……こんな人間で、ごめんなさい)  オレは、世の中の誰へともなく謝った。  謝る相手のない、謝る意味もない謝罪だ。謝罪の言葉には卑屈な思いが込められている。  卑屈ゆえにオレは、明るくて力強く、そして健康的なものに手の届かない憧れを抱いていた。抱いてはいたが、手を伸ばせるだなんて、全く思っていない。その努力をする気力は自分の身体のどこからも生まれて来そうになかった。  世界はオレとは隔絶して、輝いていた。向こう側からオレを遮る壁は、どこまでも分厚く高慢で、水面だけがキラキラと反射する、夜の都会の川みたいだった。  でも、オレは知っている。憧れた世界には、眼に見えない嫌なものもたくさん含まれている。  川底に沈んでいる廃棄物たちは、声を潜めて、眼光鋭くこちらを見ている。その息遣いは、怖いほどに正常で、異常だ。それが異常なことに気付いていないのは、あいつらそのものだろう。  オレは、知っている。  その明るい水面に、オレから近付いて入り込むことはできない。  すぐに影を掴まれ毒牙にかかる。腕をもがれ、血を流すことになる。  そうなることがわかっていて、どうして世界に近付けよう? 『―――から、―――』  まだ幼い少年の声が脳の奥から聞こえた気がして、オレは身震いをした。 (……?)
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