九の花

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 加賀結は、まるで眠るように息を引き取っていた。血の気の無い真っ白の顔には、ビスクドールのような作り物めいた美しさのみが痛ましく沈殿している。  最後の言葉すらなかった。 (結)  何粒もの涙がとめどなく加賀結の顔に、胸に、零れて落ちては吸い込まれていく。嗚咽を堪えられず、ただ泣いた。どんどん冷たくなるその遺骸はオレの腕に重たく圧し掛かる。結の頬に落ちた涙が、まるで彼の嘆きの結晶に見えた。  裏切りかな、と言った言葉が耳によみがえる。たぶん、彼はこの最後を知っていたんだ。だからこそ予測されたストーリーの末路を知らないオレを哀れんだのかもしれない。 (けど、踊らされたのはオレもお前も一緒だろ)  そう思った。  すべては時間の重みに昇華されない、無垢で残酷な魂の物理作用に巻き込まれた不運な事故だったのだ。今更【椿】や【射干玉】を恨む気にもなれなかった。【射干玉】の想いは、確かに偏執的で、狂気に満ちていたが、同情の余地がないわけではないし、どちらかというとオレの心には諦観が生まれていた。 (二千年以上もの間、報われる見込みもないまま一人の人間を想い続ける苦しみって、どんなものだろうか)  目を上げると透き通った空気の中に、【射干玉】の姿をした鬼が、血を胸から噴き出しながら、それでも幸せそうに笑むのが見えた。  慈愛に満ちた優しげな瞳で。 (まるで結のような)  彼らの言葉はもう聞こえない。口元から垂れる血液が一筋、目を焼くほどに鮮やかな赤で。  逞しい男の腕が伸ばされて、細くしなやかな更に真っ白な腕を捕まえる。彼らの間に、ずっとあった見えない壁はそこにはもうない。手に手を取り、微笑み合い、お互いの瞳にはもうお互いしか映らなくなる。  鈴が鳴る。松明の炎が二人を祝福するように跳ね、夜の風は燃え上がった。しゃら、しゃら、大気は二人そのもののように、静かに厳かに血の臭いを少しずつ安らげていく。  その先にあるのは一つ、永遠の静寂だ。  二人はお互いを大事に抱きかかえた。陳腐な抱擁が、彼らの魂に与える意味は、オレたちからしたら計り知れないだろう。それがたとえ一瞬でも、宇宙的な年数を経た先に得た報酬として、彼らの中に重く痛く刻まれる。 (焦がされる)  余りの眩しさに目を閉じると、そこにあの日の袴姿のまま、結がオレを睨みつけている。星が廻った。オレはじりじりとした日を背に受け、幸福という名の正体を知る。  あれが、オレの幸福だったんだ。  一瞬で、儚くて狂おしい千年の時を凌駕する。  きらきら、きらきら、瞳の中の光源はオレを熱をもって焼き尽くす。  結は笑った。 「直花」  うん、オレには、その存在以上に大事なものなんてない。今更思い出して、今更気付いて、でもこれは道筋通りで、オレは冴えない存在のまま、このまま、きっと。 (ほら、やっぱり)  ふと気づくと、結を支えるオレの腕も半透明になっていた。 (そういうことだ)  合点して瞼を閉じる。  まただ。オレが恐怖する『重たさ』がまた、オレを取り込もうとすぐそばで待ち構え始める。  混沌とした闇の、向こうにあるのは無だ。  魂は食らい尽されている。さっき【椿】が言っていた。生きていけないんだと教えてくれた。つまり。……オレも結も、もうどこにも存在しないのだと知った。 (……さようなら)  こんなオレでも少しはこの世に未練があったんだろうか。加賀結の居ないこの世界はそれでも、オレを苦しめるだけではなかったのかもしれない。  オレの瞼の裏で、結は泣き笑いのような顔を見せる。  ――なあ、何で、こんなことになっちゃったんだろうな。  オレは答える。  ――でも、悪くなかったよ。  終点の無い暗闇を独り歩き続けるより、数日間でも、お前と一緒に歩くことが出来て。  黒髪の下で、困ったように結は眉を下げた。 「……直花は、ほんと馬鹿だな」  その時、結の魂とオレの魂が触れ合う、凛と澄んだ微かな音がした気がした。  最後の一つの青い炎が微かに揺らめいた後、ふっと掻き消え、闇が世界を支配した。それが、すべての、最後。  ――山奥で、名も知らない鳥が朝を告げる囀りの準備をしている。
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