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知らずに再び落ちていた闇の世界。
求める光は遥か彼方に思える程遠くて、それ程微かな光で。
いくら手を伸ばしても届かない。
「待って」と叫ぼうとしても、喉に詰まった空気が吐き出されることはなく、音となって発せられる事はない。
あそこに行ければ。
あの光に手が届けば。
きっと幸せな世界が待っているに違いない。そう思うのに、届かない手が虚しく闇を掴むだけ。
そうして疲れ果て、諦めて手を下ろしかけた瞬間、グイッと温かさが手を包み、一瞬で光の世界に辿りつく。
(――え――)
「タクイ」
光の世界で呼ばれた声に、体がビクリと震えた。
「ーっーっ」
「息を吐け、タクイ」
一気に浮上した感覚の中、重たい瞼を開く。
窓から差し込む街灯の光だけが、先生と自分を薄い闇の中に浮かび上がらせていた。
未だ仄かな薄闇の世界と、先生の落ち着いた低い声の狭間で、自然と体が揺れる。
「ゆっくり、息を吐き出せ」
上体を先生の片腕に預け、ベッドから少し浮かして顎を上げられた。頭が少し落ち、必然的に僅かに反った首が気道を確保する。
耳元での言葉に従い緩く息を吐き出すと、体中の力も抜けていく。
「そうだ。そうしたら、ゆっくり息を吸って、もう一度吐き出せ」
言われるがままそれを繰り返すと、漸く自分の状況が分かるまでに、意識がハッキリしてきた。
与えられた部屋のベッドに独りで眠っていたはずなのに、いつしか先生がそこに居て、腰掛けるようにベッドに乗り、自分を包みながら見下ろしている。
闇の中で必死に伸ばしていた右手は、彼の空いている左手に固く握られていた。
「暗イ、、ノワ、嫌ダ」
あの何も無い闇を思い出し、もう一度ふるりと体を震わせる。
「少し待ってろ」
そう言うと彼は、自分をベッドに起こして座らせ、襖の横にあるスイッチを押しに立った。
部屋から闇が去ると、枕元に置いていた本を腕に抱いた。
白衣を着ていないTシャツとスエット姿の彼は、ベッドまで戻って再び腰掛けると、本を必死に抱えるこちらの顔を覗き込んできた。
「お守りだな」
無言で頷くが、まだ少し、闇の中に囚われたままの意識が重い。
「昨日も魘されていたな。どんな夢を見た」
「アンドロイドモ、夢ヲ見レルノカ」
「俺には分かんねぇけど、寝ている間に何か見たのであれば、それは夢じゃないのか」
「ソッカ」
うん。と頷いて、先程見たものを思い出す。
いつも夜になると襲ってくる闇。
自然と震えた体に気付いたのか、先生はそっと、抱き締めた本ごと、その長い両腕でもう一度包み込んでくれた。
「様子を見に来て良かった。ずっと魘されていた」
「悪カッタナ。人間ハ寝ル時間ナノニ、邪魔ヲシタ」
「そんな事は良い。急患などで慣れている。それより、夢どんなだった」
重ねて問われ、ぽつり。ぽつり。と零す、漆黒の闇や、遠くていつも手が届かない白い光。そんな取り留めのない話しに、彼はじっと耳を傾ける。
時折返って来る相槌に、ふわりと温もりを含んだ香りが鼻を擽った。
(これが、彼の香り)
スッとする、メントール成分を微かに含んだ香りは、確かに彼から感じとれる。
闇の気配は去り、何処からかやって来た安堵感に、小さな吐息を吐いた。
「もう一度、眠れそうか」
「ン。悪カッタナ」
多忙な先生の貴重な睡眠時間を削らせてしまったと、謝りながら彼の腕の中から抜け出して、本を抱いたままベッドに横たわった。
「電気消シテ良イ」
気にしなくて良いと、照明を点けたまま部屋を出て行きかけた先生に、大丈夫だから消してくれと頼む。
博士の元に居た時、闇が嫌で夜通し電気を点けていたら、「電気代が嵩むから止めなさい」と怒られた事がある。
理由は言わずとも、真っ直ぐに見つめる自分の目に、先生は分かったと、照明のスイッチを押した。
「何かあったら、いつでも起こせ」
そんな言葉に頷いてはみるものの、自分にそれを実行する気は全くない。
闇が怖ければ闇の間は起きていれば良いのだ。ここには窓がある。朝になり太陽の光を迎えれば、恐怖も和らぐかもしれない。
ただでさえ得体の知れない自分を、此処に置いてくれるという先生に、これ以上の迷惑を掛ける気はなかった。
窓側に寄せられているベッドには、幸いにも、魘されていた時から時間が経ち、柔らかい月の光が届けられている。
街灯だけの時よりも微かに明るい。これで本の温かな虹を眺め続けられる。
雨雲の間の月光は、いつも手が届く前に儚く消えてしまう光のように、温もりからは遠い輝きではあるが無いよりはましだ。
(朝が来るまでは、お前で我慢するよ)
横になりながら見上げた月が、クスッっと笑うように揺らいだ。
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