一 願い

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 四人が住宅地の奥に去っていったところまでは、まちがいない。少し行くと、一朗の家と同じような新しい家々は一区切り付いて、その先はもっと古くからある農家の家や畑、あるいは手入れされていない竹やぶや林が広がっていた。  グォオオーンン……!  低いうなり声が、聞こえた気がした。右の、竹やぶの方からだ。  ここは熊が出るような土地じゃないはず……。バイクか何かの音が、生き物みたいに聞こえただけ……?  一朗は自分の心臓の音が早まっているのが分かった。が、どういうわけか、その竹やぶに自分の足が向かうのを、止めることができない。  竹やぶはうっそうとしていて、満月にもかかわらず、外から中を見通すことはできなかった。が、竹が一部、めちゃくちゃに折られていて、闘牛か何かが通った道のようになっている。  一朗はおそるおそる、そこから中をのぞきこんだ。奥まるにつれて、竹は一層なぎたおされて、上から月明かりが届くようになっていた。そして中の様子が、まるでスポットライトに照らされるように、一朗の目に飛びこんできたのだ。  それは信じられない光景だった。  怪物、と一朗は思った。上半身が裸、醜く太った、身長三メートルはあろうかという巨大な男が、鬼のような形相で腕をふり回し、周りの竹を木っ端微塵にしている。  そしてその足元には黒い背広姿の三人が、目にも留まらぬ速さで駆け回り、飛び回っている。オリンピックの体操選手の何倍ものすばやさだ。彼らは時々、巨大な男に向かってパンチやキックを浴びせている。巨人の方も、彼らに向かって攻撃する。が、巨人の攻撃は、三人には当たっていないように見えた。 「グオオオオーン!」  巨人がほえながら、背広の一人につかみかかろうとした。が、その人は巨人の腕をかいくぐると、相手のふくらんだ腹の上あたりに、強烈なアッパーカットを突き立てた。巨体が少し浮き上がり、体が折れて頭が下がる。その瞬間、どこからともなく別の背広の人が巨人の上空に現れ、その頭に大きな輪のような物をはめた。 「ウ、グ、ウググググ……!」  巨人は苦しそうにうめきだした。輪は金色に光っている。背広の三人は動きを止め、すずしい顔で様子を見ている。  すると間もなく、巨人の体は湯気を出しながらしぼみ始め、少しずつ小さくなっていった。体形はふつうの小太りになって、身長は背広の三人よりも低いくらいになった。  ……あれは……、ひょっとして家の前で見た、あの先頭を走っていたおじさん……?   一朗がそう思っていると、男は地面の上に、ばたりとうつぶせにたおれて動かなくなった。 「一件落着!」  アッパーカットを決めた、一番体格のいい男が言った。 「あら、何言ってるのかしら? 気づいてるわよね?」  巨人に輪をはめた人が言った。この人は女の人のようだ。続けて、三人目の、細身の男が冷静に言った。 「子供に見られています。ブラック、処理をお願いします」 「ふん、承知した」  処理、だって……? 一朗はうろたえた。……見ちゃいけないものを見ちゃったんだ……! 殺される? あの人たちはいったい何者……?  一朗が竹やぶの入り口で体の向きを変えようとするやいなや、ブラックと呼ばれた体格のいい男が突進してきて、彼の細い腰をかかえ、ふたたびやぶの中に引き返した。 「はなして……! お願いしますっ、助けて……」 「大人しくしろ。取って食おうってんじゃねえよ」  わめく一朗を地面に乱暴に下ろしながら、男が言った。彼は背広を着ていても分かるほどの筋骨隆々のマッチョマンで、顔つきはきびしく、がっしりしたあごには短いひげをたくわえている。  尻もちをついている一朗に向かって、女の人が身を乗り出すようにしてかがんだ。すらりとしてスタイルが良く、スーツがやたらと似合っている。自信に満ちた表情の美人だ。彼女は長い髪を耳にかけながら、一朗に言った。 「坊や、安心して♪ あたしたちは、町を守ってるだけよ?」  その時、今まで携帯電話でだれかとやり取りをしていた細身の男が、電話をしまいながら一朗の方を向いた。彼の身長はマッチョの男とすらりとした女の間くらいか。めがねをかけていて、髪はぼさぼさだが、するどい目つきをしている。その男は一朗に言った。 「きみの記憶を、消させてもらいますよ」  一朗はぞっとして声を上げる。 「そんなっ! いやだっ……! どうしてぼくがそんな目に……! あんたたちは何者なんだ! さっきの、そのたおれてる人はなんなんだ!」  するとマッチョの男が、むすっとしながら答えた。 「さっき聞いたろ? おれたちは正義の味方だ。さっきの、おっさんの化け物みたいなのから、この町を守ってんだよ」  女の人も言う。 「大丈夫よ。この数分間のことを忘れるだ・け。坊や、おつかい中? そのマヨネーズ……。フフッ。なら早く帰らなきゃね?」  一朗はマヨネーズをにぎりしめ、それからくちびるをかんだ。数分間の記憶だとしても、わけも分からず消されるなんて、なっとくできない。さっきのあれ、おっさんの化け物みたいのとはなんなのか。いったいこの町では何が起こっているのか。この物騒な世の中と、何か関係があるのか……。 「この辺のやつだよな。見ねえ顔だな」  マッチョの男が、一朗の方に手をかざしながら言った。一朗は気が気でないが、めがねの男は何気なく言う。 「彼は百地一朗。富士見台四丁目に引っ越してきたばかりです。富士見台小、五年二組、趣味は絵をかくことと、ひとりトランプ……」  なんでこんな見ず知らずの大人が、ぼくの趣味まで知ってるんだ、と一朗が思ったところで、マッチョがぽつりと言った。 「なんだ、一コ下か」 「ちょっと……!」  女がすぐにマッチョをにらんで言った。めがねの男も、あきれたように鼻からため息をつく。一朗は一瞬わけが分からなかったが、すぐに気がついて、彼らに向かって言った。 「『一コ下』って、もしかして、年齢のこと……? 一コ下……、じゃああんたたちは、一歳年上……? まさか……、あんたたちは、ほんとは小学生? まさか……、変身……!」 「ばかなっ……! お前、まだ変身ヒーローとか卒業してねえのかよ……! い……、移動したのか、って言ったんだよ!」  マッチョはぎこちなく笑いながら言ったものの、他の二人は目を閉じて首を横にふっている。一朗は声を荒らげた。 「そんな言い方しな……、ケホッ……!」  言いかけて、突然一朗はせきこんだ。 「ゴホッ! ゴホゴホッ!」  せきは続いて、すぐにひどくなった。油断した、と一朗は思った。ぜんそくだ。のどの奥がゼエゼエ鳴って、息をするのも苦しい。寒い中を走ったし、あまりのできごとに、興奮しすぎたのだ。 「おいおい、どうした? コロナかっ?」  マッチョの男があわてて言った。一方、女の人は一朗の横にひざを突くと、彼のひたいに手を当てた後、もう片方の手で背中をなでて言った。 「いえ、コロナじゃなくて、これ……。この子、ぜんそくなんじゃないかしら。すぐにうちに返してあげるわ」  不思議なことに、彼女にふれられると、一朗は少し、症状が軽くなった気がした。  けれども、それで彼の苦しさは、治まったわけではなかった。彼はまだ少しせきこみながら、背広の三人を見上げて声をもらした。彼は、苦しかった。 「なんで……、どうしてこんな……。どうしてぼくは、ぜんそくで……、あんたたちは、ヒーローなんだ……! どうしてぼくは、こんなに弱いんだ……! ゴホッ! どうして……? 同じ小学生なんだろ……? ぼくだって……、ゴホッ! ……そうだ、ぼくだって……、ゴホゴホッ……! 戦いたい……! 悪いやつらをこらしめたい……! 怪物がいるならたおしたい……! 不安で不幸な世の中を……、ぼくはこの手でなんとかしたい……!」  一朗はなみだを流していた。背広の三人は何も言わなかったが、そのまなざしは、少年をじっと見つめていた。  やがて、めがねの男が口を開いた。 「……彼は小児ぜんそくでしょう。大人になれば、治ることも多いです」  彼はマッチョ男の顔を見ながら、にやりと笑う。 「なっ……! おれは反対だぜ、こんなガキ……」 「あら、何を言ってるのかしら。一コ下よ、たったの」  動揺するマッチョに、女が笑いながら言った。めがねの男がさらに言う。 「彼には素質があります。まあ、おそらく、ですが。それに、近ごろ人手が不足気味です」 「おい、本気かよ……!」  ゴホゴホッ! ゴホゴホッ!  ふたたび一朗のせきが強くなった。彼はしだいに意識がもうろうとしてきて、三人の会話も聞き取れなくなっていた。けれども、マッチョの男が、最後にこう言ったのは分かった気がした。 「本気で……、こいつを、仲間に入れるって?」  百地一朗は気を失い、夜の竹やぶの中、地面に小さな体を横たえた。
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