一 願い

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一 願い

 この世の、たがが外れてしまったのだ。  目をおおいたくなるような痛ましい犯罪が、日に日に増え続けていた。はき気を覚えるような醜い不正は、数え上げれば切りがなくなっていた。人々は自分の世界に閉じこもり、他人のことも数日先の未来についても考えず、ただただ感情に任せて生きるようになった。  そして――ここ数年、原因不明の怪事件や行方不明者の数は、かつてないほど急速に増加していたのである。  人々は知らなかった。この世のかげで、何が起こっているのかを。  そして、それに立ち向かう者たちがいることも――。  ここは、R県角台(つのだい)市。東京都心まで電車でおよそ一時間という、いわゆるベッドタウンだ。今もちょうど、上りつつある春の満月に照らされて、一日働いた大人やクラブ活動後の学生たちが、電車や車に乗って町に帰って来るところだった。 「マヨネーズ……? 今から? なんでぼくが」  市の中でも特に新しい住宅地に、建てられて間もない一軒家があった。まだ新築のにおいが残るリビングで、長そで長ズボンのやせた少年が、まゆの間にしわを寄せながら、母親にたずねていた。 「お願ぁい、買ってきてよ。コンビニでいいから。すぐそこでしょ?」  やせた少年の、やせた母親が、台所から少年に言った。少年は母親に聞き返す。 「お父さんは? それか、他のドレッシングとか、ないの?」 「まだ出張。週末まで帰らないよ。でね、マカロニサラダだもん。もうお魚焼き始めちゃったし、由美ちゃんもいるし。お母さん、行くわけにいかないでしょ? 行ってくれるわよね?」  焼き魚とマカロニサラダの組み合わせか……、と少年は思ったが、今から文句を言える立場ではない。ちなみに由美というのは彼の妹で、ソファーで一人、人形遊びをしている。  少年が時計を見ると、ちょうど七時だった。  ……まだ、大丈夫だろう……。  彼はそう思うと、鼻からため息をついて、 「しかたないな……」 と、つぶやくように言った。 「はい、お金。ジャンパー着て行きなさいよ」 「あっ、おにいちゃん、いってらっしゃーい」  少年は分厚いジャンパーをはおり、月と外灯に照らされながら、コンビニへの道を早歩きでたどっていった。四月も下旬になり、昼間はようやく暖かさを感じるようになってきたものの、朝晩はまだまだ冬と変わらない。 「うう……、寒い。不幸だ……」  少年は首をすくませながらつぶやき、それからきょろきょろとあたりをうかがった。この町は安全だと両親から聞いているが、テレビのニュースでは、最近いつも、どこかの殺人事件が取りざたされている気がするからだ。  彼の名前は百地(ももち)一朗。小学五年生になったばかりで、さらに言えば、角台市の住人になったばかりだ。彼の家族は三月の終わりに、東京からこの町に引っこしてきたのだった。  ……それにしても、ほんとに寒い……、と一朗は思った。……また風邪引いたり、ぜんそくになったりしたら、お母さんのせいだぞ……。  一朗は新しい学校に入って間もなく、風邪で二日間休んでしまったのだ。彼は幼稚園の年長の時に、ぜんそくにかかっていた。最近は病気の発作、つまりせきが止まらなくなるようなことはほとんどないものの、季節の変わり目のころに、のどの風邪を引くことが多い。 「はあ……」  一朗はため息をついた。新年度早々のタイミングで休んだせいで、彼はクラスのグループ作りの流れに乗り遅れ、いまだに学校になじめていなかった。本来なら、他の生徒もクラスがえだったので、転校生の自分も、すんなり溶けこめると思っていたのだ。 「不幸な世の中だ……」  そんなひとり言を言っているうちに、無事にコンビニまでたどり着いて、彼は少し安心した。  明るい店内に入ると、彼はまず雑誌のコーナーに回ってマンガを一冊手に取り、ぱらぱらとながめた。  ……最近のは、やたら恐いやつばっかだな……。  彼はそう思った。それからマンガを元にもどすと、店内をうろうろして目的のマヨネーズを見つけ、レジの店員に差し出した。 「レジぶくろはご必要ですか?」  しまった、エコバッグ忘れた……、と一朗は思った。彼は迷った。……マヨネーズ一本のためにふくろをもらうのは、良くないと思う……。けど、むき出しのマヨネーズを手に持って帰るのは、すごく見た目がまぬけな気がする……。  結局、彼はむき出しのマヨネーズを手につかんで帰ることにした。百地一朗はそういう男なのだ。  ブオブオブオ! ブブンブンブンブン!  コンビニを出たとたん、ものすごい音が聞こえてきた。おかしな形の三台のバイクが、信号待ちをしながらエンジンをふかしている。ばかみたいに頭と背もたれが持ち上がっていて、びかびか光って、まるでメリーゴラウンドの馬のようだ。何より、うるさくてたまらない。 「近所めいわくだ!」  と、一朗は大声でどなりつけてやりたかったが、相手は大人だし、子供の言うことを聞くはずもない。 「しかたない……」  代わりに一朗はそうつぶやいた。彼はバイクの運転手をこれでもかとにらみつけると、くちびるをかみながら、家への道を歩いていった。 「はあ……、やっと着いた……」  彼は自分の家の小さな門を通って、玄関に体を向けた。その時だった。  大型犬が息を切らすような声が聞こえ、何かが道を駆けてくる気配がしたのだ。一朗はぎょっとしてふり向いた。  すると、ちょうどその瞬間、家の前の道を通りすぎる者があった。先頭はほとんど半裸の太った中年男。そのすぐ後に、黒い背広の大人が三人。四人とも、ものすごい速さで走り去っていった。  ただごとじゃない……!  一朗の頭の中に、オヤジ狩り、という言葉が浮かんだ。  ……お父さんから聞かされたことがある……。昔、若者が中年のサラリーマンをねらって強盗する事件がはやった、って……。今のはそれっ……? それとも暴力団関係っ……?  彼は門まで駆け寄って、四人が向かった方を見やった。が、すでに姿は見えない。  どうしよう……。一朗は考えた。……うちに入って警察に通報するにしても、これじゃあ大したことは伝えられない。相手にされない可能性もある……。けど、悪党を放っておいたら、あのおじさんは……。 「……しかたない……」  一朗は顔をこわばらせながらつぶやくと、手にマヨネーズをにぎりしめたまま、門をふたたび開いて道に出た。  あの人たちがどっちの方向に行ったのか、それだけたしかめて、すぐもどる。  彼はそう考え、ひそかに走りだした。百地一朗は、そういう男なのだ。
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