[序章-勿忘草-]

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[序章-勿忘草-]

 新しい街に引っ越してきた初日。  僕は不動産屋に立ち寄ってくると言った父さんと別れ、初めてやってきた街の探索にと歩き出した。  不動産屋で父さんがどんな部屋を選ぶかなんて全然興味なかったし、それよりは街を歩いたほうがマシだろうと思ったからだ。  どうせ父さんが探すのは六畳一間の小さなアパート。  しかも、トイレは付いていてもお風呂は銭湯通いで、廊下を歩くとギシギシ音がして、立て付けの悪い扉は下を蹴飛ばさないと開かなくて。  そんな部屋ばかりだったんだから。  それに、その部屋は、ほんの数ヶ月でサヨナラする部屋なんだ。そんなところに愛着なんかおぼえる暇もなくて当たり前。  いつだって、そこは仮の宿。  母さんが亡くなって、父さんと二人暮らしになったあの日から、僕は野良猫のように自分の家というものをもっていない。  父さんの仕事の関係で、ひどい時は数ヶ月で引っ越しをしなければいけないという生活をしていたんだから。  めまぐるしく変わっていく、周りの環境のことも。  なにもかも。  僕にとっては、すべてが嫌で嫌でたまらなかった。  まだマンションも少なく、木造の平屋の多い小さな住宅街を通り抜けると、古びた小学校が建っていた。  ああ、ここが僕がしばらくお世話になる学校なんだ。  心の中で軽く学校に向かって初めましての挨拶をし、僕は門の影から校庭の様子を窺った。もう下校時刻は過ぎている為か、児童もまばらにしか姿が見えない。  気付くと僕は、またため息をついていた。  あの中の何人と僕は友達になれるのだろう。そして僕が去った後、何人の心の中に僕の存在は残るのだろう。  道ばたの石ころを蹴飛ばし、僕は学校の校門に背を向けると、川沿いの土手をダッシュで駆けあがった。  足もとで草がザッと鳴る。  一気に駆け上がった為、少し荒く息を吐いた僕の目の端に、その時、一人の少年の姿が映った。  少年は、枯れ草が半分位を覆っている斜面の真ん中辺りで膝を抱えて、じっと何かを見ているようだった。 「何をしてるんだろう?」  気付かれないように回り込み、ちょうどその少年の横顔が見える位置まできて僕はハッとした。  少年が見ていた何か。それは泥に汚れた一匹の猫だった。  僕と同い年か一つ上か、それくらいに見えるその少年は、猫をあやすでも撫でるでもなく、ただギュッと唇を噛みしめて睨みつけるように猫を見下ろしている。  何となく興味をひかれ、少年と猫の方へと一歩足を踏み出した僕は、次の瞬間、不覚にも小さな声を上げてしまった。 「……!」  しまったと思った時はもうすでに手遅れで、少年はぱっと顔をあげ、きつい眼差しで僕の方へ顔を向けた。 「なんだ。お前?」 「あ…あの……その猫……」  よく見ると猫の腹の辺りが赤黒く変色している。 「怪我……してるの?」 「さわるな!」  鋭い声で制止をかけ、少年がさっと猫を抱き上げた。とたんにだらんと伸びた猫の身体から赤黒い血が滴り落ちてくる。  僕は思わず声を詰まらせた。 「あ……」 「もう、手遅れなんだよ。さっきまではそれでも少しは暖かかったんだけどな」 「し……死んじゃったんだ」 「ああ、たった今」  僕はぺたんと地面に座りこんだ。  少年は抱き上げていた猫を再び地面におろし、背中をそっと撫で上げる。 「どんどん身体が冷たくなっていく。苦しかったろうな」  そう言って唇を噛む少年の横顔は、涙など流していないのに何故か泣いているように見えた。 「君が飼ってた猫?」 「いいや。オレん家は猫を飼えるほど裕福じゃねえからな。こいつは野良だよ。一ヶ月くらい前にふらっと現れたんだ。魚屋の店先で煮干しをもらってるのを見たことがある」 「野良猫……なんだ」  見ると、確かにその猫は首輪も鈴も付けてはいなかった。 「こいつ、さっき、そこの道路で車に轢かれたんだ。すげえ急ブレーキの音がしたから何かと思って走っていったら、こいつが道路の真ん中で血まみれになっててさ」 「車は?」 「逃げてく車が一台あった。とっさに石を投げつけてやったんだが、それちまって。そのまま行っちまった」 「…………」 「悔しかったろうな。こいつ。こんなあっさりやられちまって……悔しかったろうな」  可哀相でもなく、気の毒でもなく、悔しい。  本当に、そうとしか言いようのないような悔しげな表情で、少年はじっと猫の死体を睨みつけている。でも、その表情は不思議とこの少年にとても似合って見えた。 「どうするの? この猫」  僕が訊くと、少年は口をへの字に曲げて考え込むように腕を組んだ。 「このままにしとくわけにはいかないからな。どっかに埋めてやろうと思ってんだが……」  辺りを見回し、少年は橋の下の薄暗い草むらを指さした。 「この近くだったら、あそこかな。あそこだったら土も軟らかそうだし」 「あ……あんな所に埋めるの?」  思わず僕はそうつぶやいた。  日も差さないような薄暗い橋の下。 「あんな所じゃ、誰もこの子のこと思いだしてくれないじゃないか」 「……え?」  ひっそりと死んでしまった野良猫。  この少年が気付かなければ、それこそいつまで道路に放って置かれたかわからない猫。  飼い主もいず。友達もいなくて。ずっと一匹で過ごしてきた猫。  ふらりといろんな街に立ち寄って。  時には頭を撫でてくれる人もいただろう。餌を与えてくれた人もいただろう。でも、そんなのは全部通りすがりの出来事で、誰の記憶にも残らなくて。  そうして、忘れ去られて消えていく。もう、思いだしてももらえない。  それはなんだか引っ越し続きの僕自身にも重なって見えた。  だって。  じゃあ、またな。  そう言って別れた友人と、僕はいまだに再会など果たしたことはない。  僕は。 「忘れないでよ。お願いだから忘れないでよ」  知らずに僕の口からそんな言葉が飛び出していた。  たとえ通りすがりでも構わないから、憶えていてほしい。  この猫が生きていたっていうことを、心の片隅のほんの小さな隙間で構わないから憶えていてほしい。  でないと。僕は。 「忘れるわけないだろ。バカかお前は」  呆れたように少年はそう言って立ち上がった。そして僕の腕を取って引っ張る。 「ほら、泣きそうな顔してねえで。立てよ。行くぞ」 「行くって?」 「お前がそんなこと言うから予定変更だ。誰もがこいつのことを忘れねえような場所に埋めてやるんだよ。協力しろ」 「……?」  慌てて立ち上がった僕を待とうともせず、少年は猫を抱えたまま足早に歩きだした。  僕は急いで少年の背中を追う。  そして。  十分ほども歩いたろうか。少年が僕を連れてきたのは、土手の中の小さな花が咲いている一画だった。 「ここに埋めるの?」 「そうだよ」  今にも枯れそうな花の根元を、根っこを傷つけないように注意を払いながら、少年は穴を掘りだした。 「花の根元に埋めるのに何か意味があるの?」  僕は訊いた。  さっきの場所と、ここと、どれほどの違いがあるというのだろう。 「ここにこいつを埋めたら、来年きっとこの辺りには綺麗な花が咲く」  少年が言った。 「この猫の身体を栄養にして土がどんどん肥えていく。そうしたら毎年しなびた花しか咲かなかったこの場所に、突然綺麗な花が咲くことになる。みんな不思議に思い、勘のいい奴は気付くかもしれない。いや、事情なんか知らなくったって、みんなが足を止めて振り返る」 「……足を止めて?」 「そうだ。そしてそれは、そのままこいつが生きてた証拠になるんだ」 「…………」 「忘れねえよ。オレは毎年ここの花を見るたび思い出す。だから、忘れねえよ」  手を泥だらけにして少年は穴を掘り続けた。僕も横から手を添えて、微力ながら穴掘りに協力する。  そして、ようやくある程度の大きさになった穴の中に猫の身体を横たえて、僕達はそっと掘り返した土をかけた。  それから猫を埋めた場所の真上に、まだなんとか咲き続けていた一輪の花を植え替えてみる。  この花の種が土に落ち芽を出して、来年は綺麗な花を咲かせてくれるのだろうか。  そっと花びらを撫でて、僕はハッとした。 「この花……勿忘草だ」 「わすれなぐさ?」  少年が不思議そうに首を傾げた。 「前に図鑑で見たことがある。間違いない。勿忘草だ」 「へえー。オレは本とか読まねえから、花の名前なんて全然知らなかった」 「僕だってそんなに読んでるわけじゃないよ。ただ、この花はね……」  勿忘草。  この花の名前に惹かれたから。それだけ何故か印象に残ってたんだ。 「……忘れねえよ。いつまでも」  独り言のように少年がつぶやいた。  それは僕に向けられた言葉ではなかったはずなのに、なんだかとっても胸が温かくなった。 「おーい、(すすむ)! こんな所にいたのか。行くぞ!」  その時、突然後ろから僕を呼ぶ声がした。  父さんだ。  慌てて手の泥を払い、僕は立ち上がる。  空を見上げると、すっかり日も落ち、辺りは暗くなってきていた。いつの間にこんなに時間が経ってたんだろう。 「親父さんのお迎えか?」  少年が一緒に立ち上がりながら僕に訊いてきた。 「うん。ごめん。僕、行くね」 「ああ。じゃあ、また明日な」 「……え?」  駆け出そうとした僕は、思わず立ち止まって少年の方をふり返った。 「明日?」 「ああ」  少年は何かおかしな事を言っただろうか、といった表情で僕を見た。 「転校生だろ、お前。先生が言ってたぞ。明日転校生が来るって」 「……あ、ああ、そっか」  明日、また会おう。  そんな約束を交わせる倖せを、僕はしばらく忘れていた。 「名前は? オレは本郷大輔(ほんごう だいすけ)」 「僕は、美作晋(みまさか すすむ)」  大輔と名乗った少年の後ろで、さっきの勿忘草が風に揺れていた。 「……どうかしたのか?」  大輔が不思議そうに僕を見る。 「ううん、何でもない。また明日ね」 「ああ、また明日」  大輔の住むこの街が、とても好きになれそうな予感がした瞬間だった。
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