[鬼灯ランプ]

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   ***  意味が分からない。  なんで?  僕達は勉の家に行ったんだけど、そこには誰もいなかった。  勉の家は、親子三人で暮らすにはちょうどいい感じのお洒落なマンションだった。一階の玄関にはエントランスがあって、そこからエレベーターで上にのぼる。  勉の部屋は三階だったので、階段でもよかったんだけど、せっかくなので僕らはエレベーターで三階にのぼり、部屋の前まで来てチャイムを押した。  でも誰も出てこない。 「どっか出かけてるとか?」 「パートのスーパーも辞めて、裁判も休み。なのにどこへ出かけてるっていうの?」 「だよなあ」  今度こそ手詰まり。  僕達はマンションの廊下に座り込んでぐったりしてしまった。 「……中に入れねえのかよ。いちおうお前ん家だろ、ここ」  大輔が嘆く。 「鍵、持ってきてないもん。まさかこんなことになるなんて思ってなかったし」  勉も大きなため息を吐いている。  朝出かける時は、裁判所に行けば何もかもがうまくいくと思い込んでいた。  予定では今頃は、勉のお父さんとお母さんが勉の出現にびっくりして、自分達がどれだけ子供に対してひどいことをしたのかに気付いて反省して、うまくすれば離婚するのもやめて、心配かけたお詫びにって、みんなでご飯でも御馳走になってるはずだった。  それなのに。  どうしてこんなことになってるんだろう。  しかも。  ああ、ご飯のこと考えたら急にお腹が空いてきた。 「腹、減ったなあ……」  まるで僕に同調したかのように大輔のお腹がグゥと鳴った。なんてタイミングだ。 「そういえば、食べ物なんにも持ってきてなかったね」  遠足だったらおやつを用意して、なんてことを考えるはずなのに、思いつかなかったのはなんでだろう。たぶん裁判所に乗り込むってことだけで頭がいっぱいだったんだろうなあ。  僕達は三人とも単純だ。嫌になるくらい。 「仕方ない。誰かコンビニ行って弁当かなんか買ってこいよ」 「どうして大輔以外の奴が行くこと前提なんだよ」 「だってオレ、もう歩きたくない。ガス欠なんだ」 「そんなの僕だってガス欠だよ」 「お前は弐号機なんだから、偵察が任務だろ。任務遂行しろよ」 「なんだよそれ」  いつの間に僕ら、アニメの登場人物になったんだ。  ただ、もうどうやっても動きそうにない大輔と、僕達なんかよりもっと精神的にも参っているであろう勉の間に立って、僕はもう諦めるしかなかった。 「おっ、行く気になった?」  しかたなく立ち上がった僕を見て大輔の声が弾んだ。  なんだよ、元気じゃん。 「これより弐号機はコンビニまで偵察と食糧調達に行ってまいります」 「ああ、ご苦労」 「では隊長殿は、鈴木軍曹のこと、よろしくお願いいたします」 「あいわかった。美作(みまさか)少尉も気を付けて行って来い」 「ラジャー」  ああ、なんかだんだんバカらしくなってきた。  少尉って階級どれくらいだったっけ。少なくとも軍曹より上だよね。なのに偵察は少尉がするんだ。  なんて矛盾に頭を悩ませながら、僕はマンションの近くにあったコンビニに向かった。  もうすっかりお昼の時間は過ぎてるけど、夕方にはまだ早い。あと一時間もすれば夕食用の弁当の入荷があるはずだけど、今の時間帯って一番お弁当がない時間帯かもしれない。  ほんと、いろんなタイミングが悪い方向へ向かってる。  絶対今日の星占い。僕の星座は運勢最下位のはず。  ようやく見つけたコンビニはけっこう閑散としていて、店の中にいたのはやつれた感じの男の人が一人いただけだった。  そして、その人の目的も僕と同じだったらしく、残り少ないお弁当の棚を見ながらどれにしようかと悩んでいるふうだった。しかたなく僕はその男の人が選び終わるのを待ちつつ、後ろから覗き込んでみる。  年は父さんと同じか、もうちょっと若いくらいかなあ。  大きめのカバンを肩に掛けて真剣な面持ちで弁当を選んでいるその姿は、会社帰りには見えなかったから、どこかへ出かけていて帰りに寄ったって感じだろう。  にしても、土曜日の夕食をコンビニ弁当って。一人暮らしなのかな。夕食を作ってくれる奥さんとかいないんだろうか。  やがてその男の人はハンバーグ弁当をひとつ手に取って、お茶と一緒にレジへと持って行った。するとレジにいたおばさんが、軽く会釈をしたのが見えた。  知り合い、というか少なくとも顔見知りの常連さんってことだろう。 「今日もお弁当ですか? 鈴木さん」 「……!?」  おもわず足を止めて僕はレジのほうを振り返った。  このコンビニでお弁当を買う常連のお客さん。  しかも年は僕の父さんと同じくらい。  そして極めつけが、名前。鈴木さん。  それってまさか。 「コンビニ弁当ばっかりだと栄養が偏りますよ。まあ、うちは売り上げがあがって良いからあんまりこういうこと言うべきじゃないんでしょうが」 「はあ……そうですね」 「それにしても、奥さん、実家に戻られたって本当なんですか?」 「……もう、奥さんじゃないですけどね」  レジのおばさんは典型的なおしゃべり大好きなおせっかいおばさんだ。  鈴木さんと呼ばれたその人は困ったように頭を掻きながら、なんとか早く会話を終わらせようとしてか急いでお金を払い、お弁当を温めることもせず足早に店を出て行った。  間違いない。  この人、勉のお父さんだ。  そして勉のお母さんは実家に帰ってしまっているんだ。  だからもう家にもいなくて。パートも辞めて。  なにもかもが繋がった。 「おじさんっ!」  僕はお弁当を買うことも忘れて店を飛び出した。 「勉くんのお父さん!」 「……!?」  勉のお父さんが足を止めた。そしてびっくりした表情で僕のほうを振り返る。 「勉くんの……お父さんです…よね?」 「……君…は?」 「つ…勉くんの同級生です」 「…………」 「勉くんから、ご両親が離婚するって聞いて、それで……」 「まさか、勉もこっちに戻ってきてるのか!?」 「あ…はい。今、マンションの部屋の前に……」 「なんてことだ……」  勉のお父さんは頭を抱え、次いで僕のほうに詰め寄ってきた。表情が怖いくらいに真剣だった。 「いつこっちに来た? どこかで誰かに話を聞いたりしたか?」 「どこって……パート先のスーパーで」 「そこで何を聞いた!?」  まるで今にも掴みかからんばかりのお父さんの勢いに僕はおもわず後退り、そのまま尻餅をついてしまった。  これはなに。  どうして僕が責められて、追い詰められているんだろう。  これじゃ、立場が逆じゃないか。 「ああ、ごめん。ごめんよ。怖がらせるつもりはなかったんだ。大丈夫かい?」  僕はよっぽど怯えた表情をしてしまっていたんだろう。勉のお父さんは慌てて僕の腕を取り立ち上がらせると、お尻に付いた砂を払ってくれた。 「本当にごめん。大きな声をだしてしまって本当にすまない」  さっきまでの怖い感じとは打って変わって、本心から僕に謝ってくれているのがわかる口調だった。 「え……いえ」  僕が小さく首を振ると、少しだけホッとした息を吐き、勉のお父さんは真剣な目をして僕を覗き込んできた。 「確かに私は鈴木勉の父親だ。君は勉の同級生と言ったね」 「はい。美作晋(みまさか すすむ)と言います」 「そうか。じゃあ、晋くん。改めて教えてくれるかな。君達は何をしにここへきて、何をここで見聞きしたんだい?」 「えっと……」  なんだか想像してたのと違う。  勉のお父さんは僕みたいな子供相手なのに、嘘みたいに真剣な目をしてじっと僕を見つめている。そのあまりの切羽詰まった雰囲気に飲み込まれてしまって、僕は何も言えなくなった。 「とりあえず、どこかに座るか。今、家には勉が帰って来てるんだよね?」  僕が無言で頷くと、勉のお父さんは素早く辺りに視線を巡らせ、マンションから見えないように脇道に入り、僕を誘導して近くの公園まで連れて来た。 「コーヒーは……まだ早いか。オレンジジュースでいいかい?」  僕は勉のお父さんが公園の自販機で買ってくれたジュースを受け取って、一口飲んだ。ジュースはちょっと酸味が利いてるのに甘い、なかなか美味しいオレンジジュースだった。 「有り難うございます。すいません」 「これは、さっき怖がらせちゃったお詫びなんだから、お礼はいいよ」  そう言って勉のお父さんは笑みを見せる。その顔はびっくりするくらい勉に似ていた。  そのおかげでか、ほんの少し心が落ち着いてきた僕は、少し窺うようにしながら勉のお父さんの顔を見上げた。 「あの……」 「……なんだい?」 「本当に離婚しちゃったんですか?」  お父さんの顔から笑みが消える。 「……どうしてそう思う?」 「だって、さっきのお店で奥さんが実家に帰ったとか、もう奥さんじゃないとか言ってたじゃないですか」 「君は随分と頭がいいんだね。まるで小さな探偵だ」  感心したように、勉のお父さんはそんなことを言った。  でも褒められてる気はしない。  いや、褒められてはいるんだろうけど、ちっとも嬉しくない。 「僕達……勉からお父さんとお母さんが離婚の裁判をしてるんだって話を聞いて、それを止めさせようと思って来たんです」 「止めさせるって、離婚調停の裁判を?」 「はい。だっておかしいじゃないですか。子供に何の相談もなく勝手に親だけで離婚の話を進めるとか。そんなのありえない」 「ありえない…かなあ」 「ありえないです。当たり前じゃないですか」  やっぱりどう考えても、子供の気持ちを聞かずに離婚をしようなんて考える親は最低だ。  だって親の都合で一番迷惑するのは子供なんだから。  なにが子は宝だ。  本気でそう思ってるんだったら、こんなふうに子供を泣かせて悲しませることしちゃダメじゃないか。  そのことだけでもわからせてあげたい。  僕は感情が激したまま、今日ここへ来るまでに起こったことをすべてぶちまけた。  最初にきちんと調べなかったのは、そりゃ自分達が悪いとは思うけど、裁判所に行ってもお休みで誰もいなかったこと。  さらにお母さんが働いているはずのスーパーに行っても、最後は家に行っても全部空振りで、なにもかもが上手くいかなくて、本当に今日は最悪なことばかりだったこと。  全部を洗いざらいぶちまけた。  そして。  勉のお父さんは、ただ黙って僕の話を聞いてくれた。  話の中には明らかにお父さんの所為じゃない、ただの言いがかりみたいなものもたくさん含まれていただろうに、一切反論せず、文句も言わず、勉のお父さんはじっと黙って僕の怒りが収まるのを待ってくれていたんだ。 「本当に君は頭脳明晰で聡明な、素晴らしい少年だ」  そして、ようやく僕の話が一段落ついたところで勉のお父さんはそんなことを呟いた。 「君のような子が勉の友達でいてくれること、本当に感謝するよ」 「…………」  不意を突かれたような感じになってしまい、僕はおもわず戸惑って言葉をなくした。 「じゃあ今、勉と…あと大輔くんだっけ、二人は家にいるんだね」 「え…ええ、そうです。でも鍵がなくって中に入れないからドアの外で待ってます。僕はみんながお腹すいたって言うから代表してお弁当を買いに……」 「朝から動きっぱなしじゃあ、随分とお腹ペコペコだろう。じゃあみんなで食事に行こうか」 「え? ちょっと待って!」  まるでこれで知りたいことは全部わかったので話は終わったとでも言うかのように、勉のお父さんが立ち上がろうとしたので、僕はとっさにその袖を掴んで引き寄せた。 「まだ話は終わってない! 教えてください。どうして離婚するんですか?」 「……するんじゃなくて、もうしたんだよ」  僕の言葉を訂正して勉のお父さんは微かに笑った。 「私たちはもう離婚している。だから妻は家にいないんだ」 「………!」  そうだった。  さっきコンビニで言ってたじゃないか。奥さんは実家に帰ったって。もう奥さんじゃないんだって。 「じゃあ……もしかして裁判なんかとっくに終わってたってこと?」 「それはちょっと違うかな。私たちはそもそも裁判なんかしていない」 「……え?」  それってどういうこと?  裁判していないのに、離婚したってこと?  話し合う必要すらないまま、二人は別れたがってたってこと?  僕がぶつけた疑問に何一つ答えようとせず、勉のお父さんはまた微かに笑った。  それなのにそのお父さんの笑顔はなんだか今にも泣きだしそうに見えた。 「ごめんね。大人には言えないことがたくさんあるんだ」 「……そんな」 「でもいつか……そうだね。君達が大きくなったら、その時には話せるかもしれない。だからよければ晋くん。これからもずっと勉と一緒にいてくれるかい?」 「……ずっと?」 「私は、勉には今回の離婚のことについては一生何も言うつもりはないんだ。でもそのうち君が大人になって上手に嘘をつく方法を覚えた頃、私の愚痴に付き合ってくれたら嬉しいと思ってる」 「…………」 「どうかな。ちょっと先の話になってしまうけど、いつか君には本当のことを話すから、だから今はそれで勘弁してくれないか?」 「それは……無理です」 「…………」 「ごめんなさい。僕は勉とずっと一緒にいることはできません」 「え?」  さすがにそんな答えが返ってくるとは思わなかったんだろう、勉のお父さんはびっくりした顔で僕を見た。 「どうして? 少なくとも君は勉の話を聞いて、離婚を止めさせようと一緒に来てくれるくらいには、勉のことを考えてくれていたんだろう? それは勉のことを友達だと思ってくれているということではないの?」 「それは……」  どう言えばいいんだろう。  どう説明すればわかってもらえるだろう。 「勉のことは好きだし、友達だと思ってます。でも僕らは絶対ずっと一緒にはいられない」 「…………?」 「だって僕は転校生だから」 「え?」  僕はいつだって転校生。  同じところには数ヶ月。長くても一年といないで移動する。  もちろん昔の友達とも連絡なんか取ってない。  僕は行きずりの。  ただ通り過ぎるだけの。  転校生で。  野良猫みたいなもので。  だから一生の友達なんて作れるわけもなくって。  どんな相手にも、絶対に、ずっと一緒にいようね、なんて言うことは出来なくて。 「なるほど。それでようやく君がどうしてそんなに賢くて聡明なのかの理由がわかったよ」 「…………」  見上げると勉のお父さんはびっくりするくらい優しい目で僕を見つめていた。 「お父さんと二人暮らしってことは、お母さんはどうしたの?」 「亡くなりました」 「……やっぱり、そうか」  勉のお父さんはそう言って深いため息を吐いた。 「だったら君には話しても大丈夫かな。君ならきっと話を聞いても勉には何も言わないでいてくれるだろうし」 「それって僕なら平気で嘘をつけるだろうってこと?」 「そういうわけじゃないけどね。でも君はきっと他の誰よりも私たちがやろうとしていることを理解してくれるんじゃないかなと思ったんだ」 「やろうとしてること?」  僕が首を傾げると、勉のお父さんはふっと真面目な顔に戻り、真正面から僕を見た。 「私たちは離婚した。どうしてかっていうと、たとえ離婚しなくても私たちには間もなく永遠の別れが訪れるからなんだ」 「……え?」 「早ければあと三ヶ月。遅くとも一年以内に私たちは別れる。死別で、だけどね」 「死……」  言葉が出なかった。 「死んじゃうってこと……?」 「そうだよ」 「……そんな」  そんなばかな。  あまりのことに僕が絶句していると、勉のお父さんはゆっくりと噛み締めるような口調で僕に話を始めてくれた。 「彼女の病気が発覚したのは二ヶ月前。悪性の癌だと言われた。進行性の早い癌でね。年齢も若いから気付いた時にはもう手遅れで、手術して取り除くのも不可能なくらい手の着けようがなかった」  余命宣告は半年。  長くても一年はもたないだろうと、はっきりと医者に言われたということだった。 「それから私たちは考えた。これからの残り少ない時間をどう過ごすべきか」 「…………」 「君もお母さんを亡くしていると聞いたので、敢えて言ってしまったけど、私は勉にだけは母親の死を知らせずにいようと考えてるんだ」 「ずっと、嘘をつき続けるってこと……?」 「そうだよ」  そう言って勉のお父さんは大きく頷いた。 「彼女は言ったよ。たとえ逢えなくたって何処かで元気に生きてると思っているのと、死んでしまって永遠に逢えないということは全然違う。たとえ憎まれててもいいから、生きてると思っていてほしい。亡くなったと知らせて悲しませるなんて絶対に嫌だってね」 「でも……そんな……無理です。ずっと嘘をつき続けるなんて」 「無理じゃない。だから離婚したんだよ。私たちは」 「…………?」 「勉に嘘をつき続けることを決めた後、私たちはそのための下準備にすべての力を注ぎ込んだ。 まず勉にばれないように祖母の家に預かってもらい、その間に離婚の手続きを済ませた」 「どうして離婚を……?」 「考えてごらん。離婚をしておけばその時点で我々は他人になるんだ。そうしておけば何処かで彼女が亡くなってしまったとしても、それが戸籍に記載されることはないということになる。勉が大人になって結婚する時が来て、戸籍を取り寄せたとしてもそこには何も書いていないのだから、戸籍から母の死を勉が知る心配はなくなる」 「そんな……」  だからって。  そのために離婚までするなんて。 「それでいいの? おじさんは」 「よくはないさ。私だって反対した。でも妻の最後の願いなのに、それを夫である私が叶えてあげられないなんて、そんなのおかしいじゃないか」 「だから裁判も……?」 「する必要はなかったよ。そんなことに費やす時間は我々にはないからね」  死を直前に控えてやりたいこと。  やるべきこと。  それは、どうすれば息子の中から母親の死を隠すことが出来るかという、その方法を考えること。  僕の中で記憶が一気に数年前に飛んだ。  母さんが亡くなった時。  あの頃、もしかしたら僕の父さんも同じように思ってたんだろうか。  いや、きっとそれは無理だ。  なんたって倒れてた母さんを見つけて大騒ぎし、隣に住んでたおばさんに救急車を呼んでもらったのはほかならない僕自身だったのだ。  知らせを聞いて父さんはびっくりするくらい急いで病院に駆けつけてきてくれた。  そして病室の前の廊下にいた僕を黙ってぎゅっと抱きしめたんだ。  あんなふうに父さんに抱きしめられたのは初めてだった。  しばらくして父さんは言った。 「ごめんな。俺が代わってやれなくて」  あれは母さんの代わりに自分が亡くなったほうが良かったと言いたかったのか。それとも倒れた母さんを見つけるのは僕じゃなく、自分だったら良かったという意味だったのか。  たぶんそれは両方の意味だったんだ。  だって。  もし、母さんが倒れたところを僕が見てなかったら。  そうしたら僕も騙されていたかった。  母さんは何処かで生きてるんだと。  いつかまた逢えるんだと。  信じていたかったかもしれない。  僕はまだその頃、人が死ぬってことが理解出来なくて、母さんはすぐによくなるのだと信じて疑わなくって、きっと随分父さんを困らせただろう。  実際、母さんが亡くなったあとも、僕は父さんに何度も聞いた。 「ねえ、母さん、いつお目め覚ますの?」  何度も何度も。  僕はそうやって父さんを泣かせてしまっていた。  今ならわかる。  あれは決して言ってはいけない言葉だったんだと。  言えば言うだけ、父さんを悲しませて追い詰めるだけの残酷な。  本当に残酷な言葉だったんだと。  そして三日経っても、母さんが目を覚まさないことを知り、僕はようやく死というものを理解した。  ほら、泣くだろう。そんなふうに。  だから。  代わってやりたかったんだ。  そんなふうに言う父さんの幻が見えたような気がした。 「それから私たちは勉の母親を勉の中で生かし続ける方法として、なにが有効か考え、準備を進めた」 「準備ってどんな?」 「勉を祖母の家に預けた後、私たちは彼女の旅立ちの準備と、それから勉への贈り物や手紙を出来る限りたくさん用意することにしたんだ」 「贈り物?」  僕がきょとんとした顔をすると、勉のお父さんはふっと微かな笑みを浮かべた。 「毎年の勉の誕生日。そして中学高校大学への入学時。それからクリスマス。そういった日にメッセージを添えたプレゼントを贈るつもりなんだ。お母さんからだと言ってね」 「…………」 「あと、旅行先からだといって手紙を届けるために現地に行って絵はがきも買った」 「どうして旅行先からなんですか?」 「新しい住所がどこか、なんてことがわかるような手紙だと勉がお母さんを探しにそこへ行ってしまうかもしれないからね。ほら、今日君達がやって来たように」 「…………」 「だから決して彼女が今、どこに住んでいるのかわからないようにして、そしてそれを疑問に思わないような形にしなければいけない」  なるほど。  確かに旅行先からの手紙であれば、相手が今何処に住んでいるのかなんていうのは調べようがない。消印を見て手紙が投かんされた場所を探す、なんていうのも意味がないから、そもそも探そうという気持ちすら起きないだろう。 「近くにレンタル倉庫を借りて、そういったものをすべて置いておいた。そして私がその時その時、取りに行って各地から発送する。毎年毎年」 「どうしてわざわざ先に買っておいたりするんですか?」  贈り物なんてその年々の流行もあるんだから、事前に準備するのはかなり難しいと思う。しかも何年分もって。それってどれくらいの量になるんだろう。  僕がそんな疑問を言うと、勉のお父さんはくしゃりと顔を歪めた。 「そりゃ、母親から息子への贈り物なんだから、本人が選ばなきゃ嘘になるだろう」 「…………」 「贈り物を選んでいる時の彼女は、倖せそうだったよ。中学の入学式にはノートと筆箱。高校の時には電子辞書なんかどうかしらって」  洋服や靴はサイズが難しいわ。  もしもすっごく背が高くなってしまったら着られないわよね。でも、あなたと私の息子なんだから、そんなに大きくはならないかしら。  携帯もどんどん新機種が出てしまうから、今から買っておくことは出来ないわね。  あ、でも時計、腕時計なんていいんじゃないかしら。大学生になったらちょっと良い腕時計。いえ、時計はやっぱり社会人になってからのほうがいいかしら。  実際に手に取り、包装紙やリボンを決め、必ずメッセージカードを添えて。  カードには必ず「遠くにいてもいつも想っているわ。愛してるわ」の言葉。 「あと電話がかかってきたふりが出来るように、あらかじめ声を録音してみたりね」 「それ、会話が成立しないんじゃ……」 「大丈夫。留守電に入れる要領で作っておいて、必ず家に誰もいない時を見計らって電話するんだ。もちろん公衆電話からね」  もしもし勉。お母さんよ。あら、留守なのね、残念だわ。  そっちはどう? 元気にしてる?  お父さんとは仲良くしてるかしら。  私はこっちで楽しく暮らしているわ。逢いにいけなくてごめんなさいね。  ごめんなさいね。 「嘘つき……嘘ばっかりじゃないか」  逢いになんて絶対に来れないくせに。  全然、元気じゃないし楽しく暮らしてなんかいないくせに。  残念もなにも、留守を見計らってかけてきてるくせに。  しかも、その電話の先にお母さんはいない。  本当はいないくせに。 「でも、そうしたら勉の中で彼女はずっと生きているということになるんだ」  そう言って勉のお父さんは笑った。今にも泣きそうな目をして。 「じゃあ、今、奥さんは実家じゃなくって……」 「そう。近くの大学病院に入院しているよ。今日は見舞いに行った帰りなんだ。でもこれももうあと数回で終了だ」 「どうして?」 「他の病院への転院が決まってね。というか彼女がそれを希望したんだ。そして転院先がどこなのかは私にも知らせないつもりらしい」 「…………え」 「そうしたら私も勉と同じ。彼女が何処にいるか、生きているのか亡くなってしまったのか、もう知る術はなくなるということだ」 「それも、奥さんの希望で……?」 「そう」  そう言ってやっぱり勉のお父さんは泣きそうな笑顔を見せる。  まるで死期を悟って姿を消す猫のように。  自分の病気のことを知った勉のお母さんは、この街を出て行く決心をしたんだ。  そして勉と、夫の中で永遠に生きることを切望した。  毎年毎年。勉の元に届く誕生日プレゼント。  たまにかかってくる留守番電話。  旅行先からだと言って送ってくる楽しそうな絵はがき。  本当はいないのに。  どこにもいないのに。  それでも勉だけは信じてる。  お母さんは今、どこかで倖せに生きているんだと。  生きて。  生きて。  そしてずっと自分を愛してくれているんだと。  どれほどの決意だったろうか。  残された時間を大切な息子と暮らすという選択肢だってあったはずなのに。  そのほうがどれほどお母さん本人にとっては楽だったろうに。  でも、そうしないのは。  そうしなかったのは。 「勉の前から彼女はいなくなる。永遠に。でも手紙や電話やプレゼントを通して勉の母親はずっと勉の中で生き続けていることになるんだ」 「おじさんの中でも、でしょ?」 「そうだね。一応いよいよとなったら合図を送って欲しいとは言ってるんだけど」 「合図?」 「鬼灯(ホオズキ)ランプって知ってるかい?」  僕は首を横に振った。 「鬼灯の形をしたランプ、または鬼灯そのものを使って作ったランプがあるんだ。彼女と行った初めての旅行先で買ったお土産だったんだけどね。それを彼女は今でも大事にしてくれていて、最期の時にはそれを勉への贈り物として送ってくれることになってる」 「鬼灯ランプ……」 「だから、その鬼灯ランプが届かない限り、彼女は生きてるんだと、私もそう思うことにしてるんだ」  鬼灯ランプは死の合図。  それが届かないということは、彼女の元にまだ死は訪れていないはず。 「でもどうなることやら。本当に送ってくれるかどうかは微妙だけどね。彼女はそういうところ天邪鬼だし。というか、だからきっと鬼灯なんだ」 「それって、もしかして……」  鬼灯の花言葉は確か、偽り。  偽り、だったはず。  僕がそう訊くと、勉のお父さんは、やっぱり君は頭がいいねと言って微かに笑った。
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