水面の月影

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水面の月影

 さらさらと降り落ちる月の光に誘われて、子供は深い闇を纏った木々の間を歩いていた。風が吹く度に、悪魔の呻き声のような葉擦れの音が響く。ヒヤリとした風が肌を撫ぜるのも合間って、この世ならざる者がすぐ傍に侍っていると錯角してしまう。  目の前の闇が、風が生み出した音が、冴え冴えとした月が子供の現実感を剥ぎ取っていった。一枚一枚暴かれて、最後に曝されたものは何であっただろうか。  子供には目的地など無い。ただふらふらと誘われるままに歩いているだけだ。  ただでさえ存在感の薄い道ー況してや夜闇ならば全ての輪郭は曖昧模糊とした黒に溶けてしまうような道である。何処を歩いているかなど意識の範疇外ー迷子と言ってもいい状況だった。  足の裏に感じていた冷たい感覚が消えた頃、子供の目の前に湖ー規模としては池と呼ぶ方が正確かーが現れた。勿論、湖が移動して急に現れた訳ではないので正確な表現としては『子供が湖の畔へやって来た』なのだが、どうしてかこう表現するのだ。不思議なものだが、それは一つの『お約束』という定石である。  周辺の土は特に泥濘んだ様子も無く、土を踏みしめる度に立ち上がる草の匂いに水の匂いが少し混じった程度の変化しかなかった。近づく毎に薫る生命の青臭さと腐敗の生臭さが綯い交ぜになって、酩酊したように天地が揺らめく。  ぐるり、と世界が一回転する間に子供は地面の淵に辿り着いた。吸い寄せられるように名も知れぬ植物の汁で汚れた両足を踝まで、ちゃぽんと水中に差し入れる。どうやら段々と深くなっているようであるが、子供はこれ以上進む気にはならなかった。  僅か十センチメートルだけ水に浸かっている部分から血が流れ出るように体温が奪われていく。酔っぱらっていたようにフワフワしていた足が地面を捕らえて、回っていた視線が前方を彷徨う程度に落ち着きを取り戻した。  瞼を落として、スゥーと深く息を吸い込めば水気を孕んだ空気が肺の温度をー血液の温度を下げてゆく。それはつまり全身の体温を下げるということだ。必然的に頭部のオーバーヒートも緩和されて、意識がー感覚が明瞭になったような心地であった。  足の裏には砂利と思われる小石を踏みつける感覚がある。不健康を重ねた年寄りならば悶絶するような大きさであるが、この少年の体に悪い所など無いのかそのような苦悶の表情は見受けられない。  耳に届くのはさあさあと葉がお互いにぶつかる音。又は鼓膜を風が揺らす音。遠くから微かに聞こえるのは虫や動物の鳴き声。木々の放出する清らかな大気を伝播したそれは、小さくも鋭利な刺激として迎え入れられた。  三度程、深く呼吸を繰り返して瞼を持ち上げる。明々とした月光が照らす湖面は少年を中心に波立っていて、微かな動きが世界を塗り替えしまった。  それが嫌で、じっと息を潜めてみても波が収まる事は無い。生きているのだから当然であるのだが、しょうは無性に腹が立ってしまった。  視界から波立つ水面を外そうと上方へと修正すれば、視界の端に何やら白い塊が見える。視力の良し悪しを言えば良い方であるはずの少年は、その形を識別出来ない事に違和感を禁じ得ない。好奇心は猫をも殺すとは言うが、好奇心を失ってしまった生活などつまらない事この上ないと少年は信じていた。好奇心こそが学習の源ー知識の源泉であり、知識を得る以上の快楽など存在し得ないと。  凡ゆる偉人は好奇心にー己の心に従いその偉業を成したに違いないと無邪気に信じていたのだった。  そんな少年がこの白い塊を視認してしまったのだから、それが何であるのか知りたいと願うのは当然である。そしてこの少年は、先ず観察をすべきだと知っていた。  全体的な色は白。所々濃淡があるように感じられるので恐らく一色では無いのだろう。その色すら正しく認識出来ているとは思えないが、取り敢えずはそういう事にしておこう。  形は霧や霞を集めたような印象を受けた。つまるところ、流動的で可変。勿論、上手く認識が出来ていないのでこのような印象を受けるのだろう。その形に流動性を持っている固体などやや気味が悪い。  少し離れている為か、それともそもそもなのか判断しかねるが特有の匂いはしない。ただ僅かに水気が多くなり、影の気配が濃くなったと感じただけであった。体感で言えば一〜二度体温が下がったという具合だ。  十分な距離から目視で観察出来たのは以上である。即ち、これ以上の情報を得ようとすればこの白い塊に近づかねばならない。それは危険を伴う行為に違い無く、少年は危険と好奇心を自らの天秤に掛けた。  幾許かの逡巡の後、天秤は好奇心に傾く。これは何か大きな理由があるわけでは無く、多分風が吹いた拍子に傾いたくらいのものであった。それでも天秤は傾いたーその事実だけは確かだった。  淵に腰をかけた格好で湖に(多分)足と思われる部分を差し入れた格好をしていると思われる白い塊に近づいてもその姿は判然としない。依然として靄のような曖昧な存在のままだ。導かれるままにその白い物体に手を伸ばす。  何か柔らかい感触のするそれに触れた瞬間、ひんやりと掌の熱が奪われた。それが心地良くて、胸の中に生まれた熱が体の端まで伝わっていって、接触した部分からまた、体温が奪われていく。この子供はその事に言い知れぬ幸福感と安堵を覚えた。  ゆっくりと瞼を閉じて、数秒後に開く。そこには、微笑む女性の顔があった。それを認識した瞬間に子供の姿は夜に溶け始める。ホロホロと、零れ落ちるようにー解けるようにして、消えた。  後には何も残らなかった。
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