2.咲江

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2.咲江

ひとつひとつ花紙の帯を結んでいると、ひとつひとつお前様との記憶が浮かんでくる。 あの日の夜も雨だった。一人売れ残りの私はやっぱりこうやって花紙を結んでいた。ぼんやりしていてお前様が私の前で立っていることにも気づかないでいた。傘にぱたんぱたんと軒の雫の落ちる音が耳に届いて。 初めてお前様に気づいた。 『探しましたよ、咲江さん』 久しぶりに呼ばれた自分の名前、そして懐かしい声にどれほど胸が震え、同じくらいに己が身の卑しさが恥ずかしくて、どれほどその場で雪の如く消え入りたかったか。 商売に失敗して親に売られた私をお前様は必死に探してくださった。そして既に花街の水に首まで浸かった私を救い出してくれた。 だけど世間の目もお前様の親族も私のような汚れた女が妻になることは許さず、私は日陰のものでいるしかなかった。 お前様がどれだけ難色を示そうとも、家柄のしっかりした方を妻にお迎えするように説得したのは他ならぬ私。 その内、奥様が妊娠なされたと聞いた。貴方様はその事を私の前でついぞ口にしたことは無い。 それは貴方様なりの優しさだったのでしょう。だから私も口にはしなかった。 子を身篭る。それは私には未来永劫叶わぬこと。 憎い、というよりは羨ましかった。会ったことも、当然写真ですら見た事もない奥様が。皆に祝福されて生まれてくる赤ん坊のことも。 それでも。 私はお前様が時折訪ねてきてくださるだけで、それだけで充分幸せだった。 あの日お前様に召集がかかるまでは。 お前様が英霊となられたこと、受け入れていないわけではありません。それでも私は雨の夜には、こうしてお前様を待たずにはいられない。 あの夜のように花紙を結びながら、お前様がまた私の前に立って下さるのではないか、と蚕の糸より更に細い望みを繋いでいるのです。 例えそれが貴方様の亡霊であったとしても……
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