26話 夏の一日

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26話 夏の一日

 七月も終盤になり、瑞葉の学校も夏休みに入った。数日はただ父親と一緒に過ごす事に満足していた様子だったが、次第にヒマを持てあますようになったようだ。 「こら瑞葉ー? 絵日記帳は書いたか?」 「んー、だって書く事ないんだもん」  瑞葉にそう言われる度に衛はドキッとして図書館に連れていったり、公園に連れて行ったりしていたのだがだんだんそれもネタ切れになって来た。衛はそろそろ本格的なレジャーをしないと、と思ったが例の得体の知れない仙人がいつ現れるかと思うとなかなか遠出する決心もつかないのであった。 「パパ、水着買って!」  そんなある日の事である。瑞葉が突然そんな事を言い出した。 「水着なら学校のがあるだろう」 「そうじゃないのーっ、カワイイやつ!」 「そんなのどうするんだ」 「あのね、蓮君のママがプールの無料券があるから一緒にどうかって」 「へぇ、どこなんだ」  都内のプールならちょっと行った気になるし、ミユキからもそう離れないでも済む。衛はそう考えて瑞葉に行き先を聞いた。 「ホテルにゅーおーたにだって」 「ニューオータニ!?」 「ね、パパお願い。知佳ちゃんに蓮君取られちゃう!」  瑞葉の必死の懇願に、衛は困惑していた。最近の小学生はホテルのプールに行くものなのか? 「おや、ニューオータニのプールかい」 「ミユキさん」 「いいんじゃないかい。あたしが付きそうよ」  戸惑っている衛を余所にミユキは行く気まんまんになっていた。 「あたしも若い頃はカクテル片手にプールサイドを闊歩したもんさ」 「ミユキさん……」  夏休みにあちこち連れて行けないし、これ以上我慢させるのもかわいそうか、と衛は思い直し、蓮君のお母さんに電話をかけた。 「ええ、義母と自分とで付き添いますんで……」  入場料は痛いが、泊まりの旅行よりはかからないかと衛は自分に言い聞かせた。 「わぁっ」 「こら、静かに」  ホテルニューオータニは千代田区紀尾井町にある老舗ホテルだ。入った途端に歓声を上げた子供たちを思わず衛はたしなめた。 「この度はありがとうございます、皆本さん」 「いいえ、旦那の仕事の関係でチケットを貰ったものですから」  蓮君のお母さんはすらっとした美人だ。今日のメンバーは他に同級生の知佳ちゃんとそのご両親である。 「さ、とっとと行くよ」  頭を下げる衛を余所に、ミユキは子供たちを連れてさっさとプールへと向かっていった。 「すみません、愛想なくて」 「いえ、下町の人はあんなもんでしょう」  蓮君のお母さんはとくに気にした風でもなく、ミユキの後へと続いた。 「ほわー、これがホテルのプール……!」  衛は高校を卒業してすぐに料理の道に行った為、ホテルに試食目的で行くことはあっても遊びに来たのは初めてだ。ずらっと並んだデッキチェアに衛は圧倒された。 「わーっ、ビーチボールがあるよー」 「知佳ちゃんパース!」  子供たちはそんな事は関係無しにはしゃいでいる。瑞葉はショッピングモールで新しく買ったピンクのフリルの水着を着ている。お友達の知佳ちゃんはタンキニタイプのブルーの水着を着ていたので、衛は買ってよかったと思った。 「さて、あたしはカクテルでも頂こうかね」  颯爽とミユキはプールバーへと向かった。ちなみにミユキはワンピースタイプの水着の上からパーカーを着て長いパレオを巻いていて衛をほっとさせていた。 「さぁ、君たちはこっちの浅いプールな」  衛が子供たちを引率する。子供たちはキチンと足から水に入って、ぱちゃぱちゃと水と戯れている。 「ね、このおじちゃん河童を退治したんだよ!」  唐突に蓮君がそんなを言いだした。知佳ちゃんは信じられないと目を見張る。 「嘘だー」 「また蓮はそんな事言って」 「本当だもん!」  知佳ちゃんの両親と、蓮君のお母さんの視線が衛に集まる。衛はこそこそと大人たちに耳打ちをした。 「こ、子供の創造力を奪ってはいけないと思うんです」 「おおなるほど」  なんとか大人を誤魔化して、衛は子供たちに向き直った。 「いいかい、河童は池から手を出して子供を引っ張り込むんだ。池の側にあんまり近寄っちゃいけないよ」 「へぇー」  衛の言葉に子供たちは大きく頷いた。これで不用意な水の事故も防げるだろうと衛が思っていると。 「でもねー弁天池の河童は大丈夫だよ!」  瑞葉の一言がそれを台無しにした。 「弁天様の河童は龍神が守ってるから、いたずらしなくてもいいんだよ」  確かにその通りなのだが……。衛は正直すぎる我が子に頭を抱えた。 「ほら、君たち。これを膨らませて来たよ」 「わー知佳ちゃんのお父さんありがとう!」  子供たちは渡されたビーチフロートによじ登って遊びだした。 「氷川さんはいける口ですか?」 「ああ、まぁ」 「子供たちは妻が見てますから、どうです。ビールとか。一杯くらいいいでしょう。家族サービスしてるんだし」 「お、いいですね」  さすがホテルのプールバーなお値段だったが、さんさんと日差しの降り注ぐプールサイドで飲むビールは格別に美味かった。   「はぁ、うまいですねー」 「ええ。あ、あれ氷川さんのお婆ちゃんじゃないですか」  そう言われて衛が視線を移すと、ミユキが年配の外国人と話しこんでいる。 「ふん、あたしもまだ捨てたもんじゃないね」 「お義母……ミユキさん、なにしてるんですか?」 「ふふふ、内緒だよ」  そう言ってミユキはにやっと笑って去って行った。ここで一番アーバンリゾートを漫喫しているのは最年長のミユキかもしれない。 「俺、ちょっと泳いで来ます!」 「氷川さん!?」  衛はそう言って大人用のプールに飛び込んだ。雑念を取り払うように激しくクロールをしながら、ああ、こんな陽気な場所に神仏にすら嫌われたヤツが出てくる訳無いと衛は思った。
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