春と桜、それと春。

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 麗らかな春陽に照らされて、微かに花冷えを覚える春の日。ふと視界に、酷く美しい桜雲が映った。  (あぁ、──知らぬ間に、満開になっているのか。早いなぁ......。もうこんな時期か。)  卒業式が近いのだろうか、目の端には学生がわいのわいのとはしゃいでいた。この季節を、時間を、別れを、全てを惜しむように、今を楽しんでいた。その光景を目の当たりにして。  ──胸の奥、鳩尾の辺りがキュッとした。 (あんな風に騒いでた時期も、俺にだって、──あったんだよな。)  憂いを秘めた吐息を吐く彼は、真上から差し込む穏やかな陽の光に、その情景に、思わず目を瞑りたくなるような眩しさを感じた。そして、忘れていた儚き桜の美しさと、過ぎ去った青春の一項いちページを思い出し、微かな春愁が胸を過ぎった。  毎年必ず訪れるこの季節。心機一転、新たな出会いを予感し、期待に胸を膨らませる明るい気持ちになれる暖かい季節でもあり、今までいた場所や友に別れを告げる、哀愁漂う諸行無常の季節でもある。  ──そしてこの場所は、地元で有名なお花見スポットだ。  昔はドブ川だったこの場所も、今では澄んだ水が流るる美しい川と成り代わっていた。ゴミひとつない。一重に、この景色を創り出したいと奮起した地域の人々の力だった。  毎年、花見客が遠慮なく騒ぎ、散らし、汚しては、地域の住人が文句ひとつ言う事なく、この景色を保つ為、自主的に清掃を請け負っていた。  ここは、人々の想いによって創り上げられた場所だった。真っ直ぐに伸びる美しい河川の土手に、一定間隔で染井吉野が植えられている。この桜が満開の、長くてもたった二週間の時間を美しく彩る為に、一体何十年もの歳月が掛かけられたのか。  そんな事に想いを馳せる者は少ない。彼らにとっては、あって当然の、唯在るだけの景色なのだから。どの様にして作り上げられたかなどは構やしない。人々の想いを、苦労を蔑ろにしている自覚もまたない。その美しさを、全てを、唯在るものとして享受しているだけだからだ。  だが、桜は、何処吹く風と言った様子で毎年、強く咲き誇る。近くでまじまじと見てみると、白っぽい花弁は、遠くで一望する事で、淡く、薄い桜色へと姿を変える。また、こんな穏やかな日には、ただでさえ美麗なる染井吉野と、美しく透き通った川の特性が絶妙に交錯し、幻想的な桜影を創り上げ、この景色は、一層艶あでやかな風景へと姿を変える。  ひとつ、大きく息を吸うと、爽やかな薫かおりを春風が鼻腔へと運んでくる。 「はぁっ......」  思わず溜息を吐いてしまうほどに恍惚としてしまう。偶たまには散歩も悪くはない。折角なので、桜並木の下を通る事にした。  昔懐かしい道を歩く。そうしていると、ふと、幼少の頃、今は亡き祖父母と手を繋ぎ、少し開けた場所で風呂敷を広げ、小さな弁当箱に詰められた出汁の香りが楽しい卵焼きと、少し塩っ辛いおにぎりを食べながら、桜狩りしていた事を思い出した。  時が過ぎ去る毎に色褪せて、セピア色に変わって往く想い出。だが、その景色は今も鮮明に覚えている。色、匂い、感情、味、音。──その全てを、明瞭に思い出せた。  そう。あれは、今と同じような艶陽えんような春の日、祖母が作った、弁当を頬張っていた時だ。暖かな日差しを受け、手で庇ひさし作った時、不意に花の風が吹いた。風呂敷の端が捲れ上がり、桜の花弁が沢山、散らされた。  ──その桜吹雪の美しさは、如何いかんとも形容しがたい情緒があった。  たったひとつの風に散らされ、舞い上がり、照らされて、踊り狂う花弁。春の匂いを強烈に感じ、何故か涙が出そうになるほどに感動した。儚く咲き誇る、命の力を、その火を燃やす強さをひしひしと感じたのだ。 「うぉっ......!?」  感傷に浸っていると、突如として『ゴォー』っと音を立て、強風が吹き抜け、桜を蹂躙した。  ──桜吹雪が吹き荒れた。天高く、舞い上がった。  慌てて見上げると、真っ直ぐな陽の光が網膜を焼いた。だがしかし、目を瞑ってはいけない。そんな気がしたのだ。目を細め、その景色を脳裏に焼き付けた。 (あの日と......いや、あの日よりも──。)  夥おびただしいまでの桜の花びらが宙を舞っている。くるくると回るもの、ひらひらと落ちていくもの、ただただ風に任せて流れていくもの。全てが、強烈に陽の光に照らされ、きらきらと輝いて見えた。まるで、晴天に星空を映したような壮観だった。そして、この鼻腔を擽くすぐる春の薫り。その場の全部が、大きな感情の濁流を起こすまでに、強烈に、心を叩いた。  綺麗で、切なく、美しく、儚く、嬉しいようで、悲しい。両極の感情が胸の中で鬩せめぎ合った。  ──自然と、頰に一筋の涙が伝った。  散る桜、残る桜も、散る桜。嗚呼、なんたる命の冒涜か。しかしこれ程までに美しい。思考の矛盾の先に成り立った一つの感動。それは強く、克明に記憶の一つとして心に、脳に刻まれた。 「「美しい......」」  ふと口をついた言葉に、何者かの声が重なる。両者思わず顔を見合わせた。 「あ、どうも。」 「どうも。」  一瞬目が合い、互いに挨拶をした。無論、他人だ。だが──。 「今の桜吹雪、凄かったですね。」  可憐で華奢な女性。彼女は、そう微笑みかけてきた。 「ええ、あんなの、この先一生拝めるもんじゃないでしょうね。」  ──同じ感性を持ち合わせた二人だった。 「ここで会ったのも何かのご縁。一緒に食べませんか?」  唯の偶然だったろう。本当に、唯の、運命の悪戯だったろう。だが、彼女が差し出したその弁当箱には、卵焼きと、おにぎりが詰められていた。 「......良いんですか?」  彼は、成人を迎えた身としては恥ずかしいが、“運命”なんてものを感じてしまった。また、彼女も──。 「えぇ、どうぞ。」  そう言って彼女は敷物を広げ、隣に座る事を促した。 「し、失礼します......」  促されるまま腰を下ろし、手渡された割り箸で卵焼きを口に運んだ。 「美味しい。料理、お上手なんですね。」  噛むほどに、出汁の薫りが鼻に抜ける。彼は、”あの記憶“を想起させずには居られなかった。 「ありがとうございます。って、ど、どうされたんですか!?」 「え?」 「ほら、涙が出てます。」  彼女は彼の頰に指を滑らせ、涙を掬すくって見せた。 「あ......お恥ずかしい。少し昔の事を思い出しまして。」  また心の許容量を超えた感情が、一筋の涙として溢れてしまったようだった。 「そうなんですね。私、多分その気持ちわかりますよ。昔、小さい頃母方の祖母とここへよく来たんです。祖父は早くに亡くなってしまったんですけどね。 その祖父が好きだったって、いっつも出汁の効いた卵焼きとおにぎりをこさえて、ここで食べてました。今日は、そんな事を不意に思い出して、思い出しながらお弁当を作ってここへ来てみたんです。 あっ、すみません、烏滸おこがましい事言ってしまって。そう言う理由では、なかったですか?」  ここを創り上げた人達は、祖父母世代や、その親世代の人達だ。だから、孫を連れて弁当をこさえて、ここへやってくるのは、何も珍しい話では無かった。 「あの......その通りです。僕も、昔祖母に作ってもらった弁当を持って、桜が綺麗な晴れた日には、よくここへ来ていました。なんていうか、失礼かもしれないんですが、卵焼きが凄く懐かしい味で。つい、感傷に浸ってしまいました。」 「......やっぱり、そうだったんですね。恥ずかしいんですけど、なんだか、同じ気持ちなのかな、なんて思ってしまって。......いや、あ、あの、変なこといって......すみません。」  胸がときめいた。暫く感じていなかった激しい胸の高鳴りを感じ、一際大きな恋愛感情が、一気に彼の頭の中を支配した。 「いえ、凄く嬉しいです。良かったら、お名前をお伺いしても? 僕は義純よしずみと言います。」 「え!? う、嬉しい......? あ、そ、そうですか。えと、私は華蓮かれんって言います。......なんか、お見合い、みたいですね。あはは......」  彼女は、たどたどしくそう答えた。 「華蓮さん、良かったら僕と、お付き合いして頂けませんか?」  男は度胸。彼は、直球勝負に出た。 「えっ!? え、えとえと、あーっと......はいっ!」 「良いんですか!?」  彼は、自分から言っておいて、その返事に驚愕した。 「はい......わ、私も、声を掛けた時、ちょっと良いなって。運命、感じちゃったみたいな......?」 「そ、そうですか。では、よろしくお願いします。」  向き直り、頭を下げた。 「ふ、不束者ふつつかものですが、よろしくお願いします。」  彼女もそれに倣った。 「「......」」  少し奇妙な間が、空気が漂った。 「た、食べましょうか?」 「そ、そうですね。」  春の麗らかな日差しに包まれて、二人、散った花びらと流れる川が織りなす花筏はないかだを眺めながら、ぎこちなく、だが、仲睦まじく。弁当を食べ進めた。  こうして、二人は運命的な恋に落ちた。  ──二人に、“春”が訪れたのだった。
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