拾壱冊目

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拾壱冊目

       翌朝、何時戻ったのかもわからないが、普通に自宅で目を覚ました冴島(さえじま)汐理(しおり)は、約一週間に渡る図書館実習のため、今日も図書館に来ていた。この図書館に通うのは、高校時代振り……()()()()()()()()()汐理にしてみれば、二年近くも前の事である。  そして汐理は、どうしても探したい資料が地下の書庫にあることを、書庫担当の職員である美咲(みさき)に告げ、閉館後に一緒に探してほしいことを伝えた。  美咲……宝条(ほうじょう)美咲(みさき)は、ベテラン揃いの図書館員の中でも唯一の新人のようで、フルタイムで働く図書館員に与えられるロッカーの他に、事務室内にある簡易的な荷物置き場である扉付きの棚の、二つ並んだ方の棚の上から二つ目、右側の上から二番目の棚を使用していた。二十四歳ながらも、大学を出てからの遍歴は凄まじいものらしく、ようやく念願の図書館員という仕事にありつけたのは良いものの、度重なるハラスメントの嵐に、次回の契約更新は断ろうと思っていると、汐理にだけこっそりと教えてくれたこともある。  また、実習生である汐理に対して、「しーちゃん」「しーくん」に始まり「しおりん」だの「しおたん」だの何だのと言った、汐理の「名前コンプレックス」をじわじわと刺激するあだ名を付けたがり、呼ぶ図書館員の女たちの中でも、この美咲だけは唯一「冴島君(さえじまくん)」と呼んでくれる、数少ない良心の一つでもあった。……それならば本当は美咲のことも、名前ではなく「宝条さん」と呼ぶべきなのであろうが、美咲が入る前に既に同じ苗字のベテラン館員がいたため、美咲の事は渋々「美咲さん」と呼んでいる。 「でも、冴島君がそんなに熱心に探している資料って、いったい何なの? 地下に在るのがわかっているってことは……それなりに古い案件なのかしら?」  少しウェーブの掛かった黒髪を弄りながらも、休憩時間中にそう言う美咲に、汐理は思わず唇を噛みそうになる。  汐理が探している資料とは……二年と少し前に起きた、この図書館のすぐ近くで起こった交通事故に関する資料だった。被害者は当時女子高生だった細川(ほそかわ)(つづら)である。  このあたりは、なかなかスピードを出して走る車が多いので、彼女と一緒に図書館に通っていた時期は、汐理が常に車道側を歩いていた。それが、汐理が卒業するとともに、悲惨な事故が起きたのだ。大学に入ってからも、汐理はその事故に関する報道を忘れられないでいた。  汐理にとっては「まだ」二年前の出来事だが、世間的には二年「も」前の出来事なのだと、改めて実感する。  汐理の表情が無意識に影ってしまったのが見えたのか、美咲は慌てて言葉を訂正してくれる。 「あぁ、でも、地下にある資料の中でも、新聞や地区の刊行物なんかは、それなりに新しいものもあったわよね」  さらに、美咲は、本のタイトルが解らなければ、レファレンス担当の先輩の手の空いている時にでも、さりげなく聞いておいてくれると言ってくれた。もしかしたら、彼女なりに、何か汐理の琴線に触れてしまったことへの詫びなのかもしれない。 「ありがとうございます、美咲さん」  そう言って、汐理は休憩を終え、実習へと戻ったのだった。  図書館もようやく閉館を迎え、汐理は美咲に連れられて地下の書庫へと入っていった。……昨日のような、妙な感覚も無く、新人ながらも書庫担当の意地と言わんばかりに資料探しに明け暮れてくれる美咲に、頼もしさを感じた。  汐理が探していたのは、二年前の新聞の記事だった。通常、雑誌や新聞には保存年限というものが有り、一定期間を過ぎると、美咲のような担当者が纏めて処分をするのだが、その年限は資料によって違うらしい。汐理の目当ての記事の新聞は、この図書館の雑誌・新聞の資料の中でも、永年保存のものを除けば、かなり長く保存している物だった。  新聞の記事ならば、縮刷版や電子資料もあると言われたのだが、どうしても、当時の記事を直接手に取って、それが「現実」の出来事であると認識したかったのだ。……おそらく殆どの図書館員からすればいい迷惑な利用者になるのだろうが。  始め、汐理は図書館実習の時期を夏休みよりも早めに申し出たのは、夏休みに開講されるとある講義が、優先順位の高い資格取得に必要なものであり、それと図書館実習が重なると不都合だから、であった。だが、昨日、夢か(うつつ)か解らないが綴と再会した今では、この時期に図書館実習に来るのは偶然ではなく必然であったのかもしれないと思っていた。  この図書館の、汐理が目当てにしている新聞の保存年限は約三年で、今年、この時期に来なければ、目当ての記事は処分されていたかもしれなかったのだ。  美咲が図書資料を整理がてらに物色してくれている間に、汐理はようやく目当ての日付の新聞記事を見つけた。既に処分しやすいように束ねられてしまっているが、美咲が抜かりなく束ねるための紐とハサミを持ってきてくれていた。  記事に載った、二年前には見慣れていた少女の写真を見て、汐理は思わず泪を零しながら呟いた。 「……ごめんね、綴」  美咲はどうやら聞こえていないフリをしてくれているようで、退勤時間だと知らせに来た別の職員が現れるまで、二人はしばらく地下書庫でそうしていた。  その数日後、汐理の一週間に渡る図書館実習は終わりを迎えた。  図書館の実習担当の職員から、評価シートを受け取り、短い期間であったにもかかわらず、職員たちの用意してくれたという餞別を受け取る。もし大学卒業後に就職先が見つからなければこの図書館に来ればいい、歓迎すると言われたが、汐理は特に司書を目指しているわけではなかったので、うやむやに返事をした。  美咲がそれとなく、実習生は常にこうやって見送るのか尋ねていたが、答えは否だったようで、美咲は首を傾げていた。  荷物を抱えながら、昔通い慣れていた図書館からの道を歩く汐理。  駅のホームに着いた時、最後に図書館の方へと振り返り、言った。 「……さよなら、綴」  電車に乗った汐理の頭の中は、大学の期末試験とその後の夏季休暇に行われる講座の事でいっぱいになっていた。          
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