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弐冊目
スマートフォンの電波が圏外になっている事を確認した綴は途方に暮れてしまう。真っ暗な中では勉強をすることも、持ち歩いている文庫本を読むことも出来ない。さらに、スマートフォンの電波が届かない中では、光源として利用するには良いものの、アプリなどを使用するのにも制限がかかることが多いうえに、バッテリーの問題もある。
仕方ない、とため息を吐いて、綴は勉強部屋を出ることにした。やはり図書館の二階の最奥の部屋よりは、せめて入口付近の方が職員にも発見してもらいやすかろう、と思い直したのだ。いや、むしろ、何故あの時、勉強部屋に戻ろうなどと思ったのだろうか。今更ながら、奇妙な思いつきではある。
勉強部屋の扉を開いた綴は、違和感を覚えた。廊下が不自然に感じるのだ。少なくともさっきまで通ってきた廊下とは別のモノであるような気がする。綴の感覚がそう感じるだけだろうか。
綴は構わず廊下を進むことにした。とにかく今は、図書館の入口までたどり着けばいいのだ。そう言い聞かせて。
廊下を進みながら、やはり綴はおかしいと感じていた。気のせいではない、と。
歩けども、歩けども、勉強部屋から伸びる廊下は、図書館二階に設置されている視聴覚ブースに辿り着くことはなく、途中で見かける廊下も、いつもの階下が見下ろせる吹き抜けではなく、見たことも無い部屋の窓が並んでいる。もちろん部屋の中は真っ暗だ。
そういえば、勉強の息抜きにと、今も持ち歩いて読んでいる本の内容がこんな感じのものだったかもしれない。そう思うと、綴は自然と、コレは夢だ、と思うようになった。
捻じれた廊下をやっと歩き終えた綴の目の前に現れたのは、図書館二階に設置されている視聴覚ブースだ。DVDや旧式のビデオテープ等の映像資料や、CD、その他にもPCが時間制限つきだが利用できるらしい。実際に利用したことはない。全て一年と少し前に、先輩の汐理と共に図書館員から聞いた案内による情報だ。
視聴覚ブースには、規則的にディスプレイが並んでおり、ブースに入ると他のブースの内容は見えないよう遮られている。勉強部屋に向かう際にも此処を通りかかるのだが、利用者がブースで映像を見ている時には、ブースの中以外の角度からは内容が見えないようにされているようだった。
規則的に並んでいるブースの内、綴から見て一番手前にあるブースを覗いてみる。通常ならばマナー違反だろうが、今は閉館後、それも夢の中かもしれないのだ。特に気にはならなかった。
そのブースの画面が一番大きなようだったので、単純にそのブースを覗いてみたのだったが、綴が画面を覗いた瞬間に、画面の中から青白い手が突き出てきた。
綴が冷静にその手を避けると、手は画面の中に戻っていった。
(そういえば、あんな内容の映画を、昔見たことがあったような気がする。あの手に捕まったらどうなるのだっただろう)
他のブースを見回してみると、画面から一斉に手やら腕やら頭のようなものが出てきたので、綴は迷わずに、すぐ脇にある一階への階段を駆け下りた。
階段の踊り場に飾ってある絵画は、中身が動いている。が、さっきの視聴覚ブースのように飛び出てくるようではないので放っておく。
鞄の取っ手とスマートフォンを握りしめながら、何とか図書館の入口まで走り抜けた綴だったが、やはり入口の自動ドアは開かない。ただ電源を切られただけならば手動で開けられるので(休日には朝一から並んで勉強部屋に入り浸るので、職員が開館と同時に手でドアを開けるのを綴は何度も見ている)、どうやら鍵を掛けられてしまったようだ。
ガラスの自動ドアに映る自分の姿を見てみる。
走ってきたせいで、両耳の少し上で結んでいる髪はボロボロになってしまっている。去年までは、二つ上の汐理と並んで歩いても幼く見えないよう、髪を下ろしていたのだが、やはり勉強の邪魔になるので、今年度に入ってからは、元の二つ縛りの髪型に戻していたのだ。二つに結んだ髪を見て父親がなぜか歓喜の舞を踊っていたのは、きっと気のせいだったに違いない。
制服は、少し襟や裾が乱れてしまってはいるが、基本的に校則を破らない程度に着ている。特に教員に注意されたりもしない、「普通」の制服だ。紺色のブレザーにチェックのスカート。そろそろブレザーのジャケットを着ていると汗ばんでくる時期になってきた。そういえば、夏服への衣替えの時期の最中だった。明日からは走っても汗をかかないように、夏服用のベストを出そうか。でも朝と夜は冷えるので、上着はまだ必要かもしれない。
靴は少しだけ踵が高くなっているローファーだ。これも、去年、汐理と並ぶために、少しだけ背伸びをして親にねだって買ってもらったものだった。茶色い革靴は、履けば履くほど綴の足になじむので、実は見かけほど歩きづらくは無かったりする。ちなみに、綴は若干外反母趾気味の偏平足のため、ローファーのつま先の部分は狭くなっていないタイプのものを選んでいる。
自動ドアに映る自分を見ながら髪を結び直した綴は、その映り込む自分の顔が、現在の自分とは微妙に異なっていることに気が付いた。実際の綴は息切れも治まった通常通りの無表情で、ガラスの向こうの自分は、何やらニヤニヤと笑っているように見える。
ぽかんと、綴がドアガラスを見つめていると、ガラスの向こう側の綴がこちらに手を伸ばしてきた。
二階での出来事を思い出し、思わず飛びのいた綴は、そのまま玄関のドアから離れる。
「こっちにおいでよ、つづら」
妙に間延びした、中途半端な高さの声が綴を呼ぶのが何とも気持ち悪かった。
再び走り出した綴が向かったのは、「Staff only」と書かれている扉だ。通常時ならば、図書館の職員しか入れない部屋ではあるのだが、今はそれどころではないというのを綴は察していた。事務室のドアをドンドンと叩きながら、綴は中に声を掛ける。が、何も応答がなく、さらに玄関の方からどうやら抜け出てきたらしい「向こう側」の『綴』がこちらに向かってきている。
仕方ない、と綴は事務室のドアのドアノブに手を掛けたのだった。
思ったよりもすんなりと開いた事務室のドアに拍子抜けした綴だったが、迷わずそこに飛び込み、出来るだけ音を立てないようにドアを閉めた。
やはり、職員はいないようだ。
たとえ、居たとしても、通常でも八時閉館、現在は九時を過ぎている。退勤していてもおかしくはない。……むしろ、今の状況だと、中に誰もいなくて良かったのかもしれない。
「誰かいませんか」
念のため、小さく声を掛けてみる。ドアの向こうにいるかもしれない『綴』に聞かれたら、突き破ってきてしまうかもしれない。
ささやくような声量ではあるが、三回ほど声を掛けながら事務室内を歩き回っていると、奥の方からうめき声のような音が聞こえた。
普段はお目に掛かることのない図書館の事務室だったが、そのうめき声のようなモノの出所が給湯室であることは、高校生の綴にもわかった。
給湯室の方に向かおうとすると、その手前にあった棚に入っていた絵本の表紙から、何かが飛び出てきた。「修理中」と書かれた札の付いた大きな輪ゴムで留められている。おそらくは何かの理由で破損し、修繕中や修繕待ちの本が、事務室の奥に集められているのだろう。
絵本の表紙から飛び出てきたのは、不気味なぬいぐるみのようなモノの頭のようで、さながらびっくり箱のようだ、と綴は感じた。
やはり冷静にぬいぐるみのようなモノの頭を避けて、給湯室に向かう。
狭いスペースに押し込んだような簡易的な、ガスコンロの付いていないキッチンのようなスペースだ。脇には戸棚があり、一般的な皿やコーヒーカップの他にも、職員の私物であろうカップなども並んでいた。
一通り見回した綴は、ふと足元に目をやった。
頭を抱えて震えている「人」がいる。
綴が手を伸ばすと、その人物は再び悲鳴を上げた。
「ヒィィィィ……ちっ、近づかないでぇ……」
その声に綴は聞き覚えがあった。一年間、学校からこの図書館まで一緒に走り、閉館後は駅まで一緒に歩いた人物。
「……汐理先輩?」
事務室内の給湯室で頭を抱えて丸くなっていた人物は、冴島汐理その人だった。
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