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それから
「一弥、早く行こうぜ!」
「ちょっと待ってよ。もうすぐだから!」
僕は急いで玄関で靴をはく。
先に外で背中を向けている影に、「お待たせ」と声をかけ、振り向いた笑顔に微笑み返す。
雲一つない青空と、頂点間近でたぎる太陽。マンションの七階から受ける風は、梅雨の終わりを告げるように優しげに渇いている。
あれから一年近くが経過した。結局貴樹からの連絡はないままだ。僕から連絡することもしなかった。しても貴樹は出なかっただろう。貴樹の性格上そんな気がしたし、追い詰めるようなこともしたくはなかった。
綾さんとはなぜか今でもそのままの関係だった。同じ男を愛したせいか、精神的に分かり合えたような気さえする。
そして僕にも出会いがあった。濡れそぼっていた僕に傘を差し出してくれた人。貴樹とは違って惹き付ける眩しさがあるわけでも、強引で男らしく見えるタイプでもないけれど、差し出された傘には嘘偽りがなくて、そして、とても大きくて綺麗だった。あの日見たエメラルドやアメジスト、他にもいろんなものがちりばめられた黒い傘。そんな傘に入りながら、僕はゆっくりと優しく温められていった。
貴樹を忘れることはないだろう。『おまえはそのままでいい』と僕に初めてをくれた人だから。だからこそ、今のこの温もりがあるのだから。
「行こう」
僕はそっと手を握って歩み始めた。並んで歩く彼と一緒の傘に入って。
了
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