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もつれ
僕が綾さんの店の前に着いたのは待ち合わせの時間を十分過ぎていた。
上がる息を深呼吸で整えて、『小料理 綾』と白字で書かれた藍染めの暖簾を潜ろうとすると、「綾さん、分かってるから」と少し語気の荒い貴樹の声が聞こえてきた。
それからしばらく沈黙が続いていたので、躊躇しながら引き戸を開ける。
取り繕った笑顔を覗かせると、「あ、カズちゃん、いらっしゃい!」と綾さんの何事もなかったかのような声に迎えられる。
「遅えよ、一弥」
貴樹の声が口調の割には怒られた後の子供のように力なく僕に届く。
綾さんの早く、早くとの手招きに応じて、僕はいそいそと靴を脱いで、カウンター奥に向かう。
「ごめんね。ちょっと遅れちゃって」
そう言って貴樹の左隣に腰をおろす。
「綾さん、こんばんは」
向けてかけた僕の言葉に、「カズちゃん、相変わらず綺麗だね」と返ってきたいつも通りの挨拶変わりの言葉も、今は空気を変えるためのものにしか聞こえない。
「なに飲む?」
おしぼりを渡されると同時に聞かれたので、僕は梅酒のソーダ割を頼んだ。隣の貴樹はお猪口で日本酒をちびりちびりとやっているようだ。ひょっとしたら、随分前から店にいるのかもしれない。貴樹はあまり顔色に出ないので分からないけど、なんとなくそんな気がした。
「はい、おまたせ」
綾さんは微笑みながら梅酒のソーダ割のグラスを僕の右手前に置く。
綾さんは美人だ。少し垂れた目の中にある大きな瞳の黒が、肌の色の白さと相まって余計魅力的に感じる。背も高く、スタイルも良い。いつも白いTシャツにジーンズと飾らずにいて、それでも充分に魅力的なのは、きっと内面から滲み出ている妖しげな艶のせいかもしれない。女ということではなく人間的な色気。僕が持ち得ていないもの。
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