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綾さんが常連客を迎えに出るのを見計らったように貴樹が耳元で囁いてくる。
「一弥、わりーんだけど……」
僕は貴樹が言い終わる前に、ジャケットの右ポケットに忍ばせていた一万円札を取りだし、左太腿の上に置いた。
貴樹はそれを無言で受け取り、ジーンズの左ポケットにねじ込んだ。
貴樹はいつもお金がない。今年の始めに念願のダーツのプロライセンスを取ったものの、まだスポンサーが付くわけでもない。それに、店の給料が安いと言いつつも仲間や後輩に奢ってしまう。綾さんの前でも格好つけたいのか、最低でも割勘、もしくは全部出したふりをする。惚れた弱みとは分かっているけど、貴樹が格好つくなら僕は構わない。
二十時を回る頃にはカウンターが常連客でほぼ埋まったので、僕らは店を出ることにした。
貴樹は、「一弥、今日は割勘でいいか?」と白々しく断り、僕らはお会計を済ませ店の外に出た。
見送りに出てくれた綾さんが貴樹に、「タカちゃん、分かってるわね」と念を押すように声をかけた。
「分かってるよ、綾さん。今度からちゃんとするよ」
そう言う貴樹の顔には渋い色が浮いている。
「カズちゃん、ありがとうね。たまには一人でいらっしゃい」
綾さんは優しい笑顔で言ってくれたけど、大きな瞳にいろいろ見透かされそうで、とても一人でなんて顔は出せない。
僕らは月も星も見えない中途半端な夜空の下を歩き始めた。
さっきの綾さんとの会話が気になって仕方なかったので、それとなく訊いてみると、ため息混じりに僕に顔を向けた。
「なんでもねーよ。ちょっと小言を言われただけだ。綾さんにとっちゃ、俺は子供みたいなもんなんだよ。実際、綾さん三十八歳だろ? うちの母親とそんなに違わねえしな」
愚痴っぽい語りのあと、貴樹は気を取り直したような笑顔を作り、「飲み足りねえから、もう一軒行こうぜ」と僕の肩に手を回してきた。
僕は平日の夜しか貴樹に会えない。それも貴樹のシフトが休みの時だけ。週末は綾さんのもの。だから、少しでも長くいられるなら断る選択肢なんてない。
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