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暖簾も出ていない綾さんの店の前に立っても、ここまでの道すがら続いている思考の混濁は晴れることもない。
「カズちゃん、いるんでしょ?」
引き戸越しに綾さんの声が届く。きっと僕の影が見えていたんだ。
恐る恐る開けた向こうに綾さんの微笑む顔が見えた。カウンターの真ん中辺りに座る綾さんの傍らには貴樹の姿が見えない。個別の呼び出しか……。
「す、すみません。遅くなって……」
「ううん。こっちこそ呼び出してごめんね」
僕は崩れることのない綾さんの微笑みに吸い込まれるように敷居を跨いだ。
綾さんが遠目でも分かる白く細い手で隣に座るようにうながす。
逆らえずに重い足を引きずって、なんとか目の前までたどり着き立ち竦む。
「さあ、座って」
念を押す言葉に、僕は座りうなだれた。
顔を向けることもできずに綾さんの言葉を待つ。その時間はとても果てなく。
「貴樹ね、この街を出ていったわ」
聞こえてきたその言葉を僕は理解できずにいた。ただ塊で入ってきた単語の連なり。
「わたしが追い出したの」
ようやく塊がほどけて、頭の中で言葉が意味をなしてきた。そこにまた大きな塊がぶつかる。
混乱する僕に構わず、綾さんが語り始める。
「貴樹ね、借金があったの。店のオーナーから借りててね。それをわたしが肩代わりしてあげたのよ。ほら、貴樹って安い給料のくせに、金使い粗かったでしょ? オーナーもあんまり筋が良い人じゃなかったから、一回精算して月々返してもらってたのよ。店も早く辞めろって何度も言ったんだけど、恩があるからって」
綾さんの声が、緩慢に頭を埋めていく。
「それでね、月曜日の深夜にわたしに泣きついてきたのよ。お金を貸して欲しいって。いくらって訊いたら、二十万円くらいって言うのよ。理由を問い詰めたらね、どこぞの美容師孕ましたんだって」
最後の言葉だけハッキリと聞こえてきた。あの女だ。
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