雨粒と、流れて

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 梅雨時期らしい雨の日の、朝だった。 「すみません、あのっ」  板倉紫月(いたくらしづき)は最初、大勢の通勤客が歩くホームで、その呼びかけが自分に向けられているものとは思わなかった。 「すみません!傘、お忘れですよ」  そこまで言われ、ようやく自分の手元を見た。朝自宅から持って来た筈のものが、そこには握られていなかった。  呼ばれていたのは自分だったか、そう気付いて振り返れば、背後に居たのは見覚えのあるサラリーマン風の男だった。知り合いというわけではない。ただ、平日毎朝見ていた顔だった。 「これ、あなたのですよね」  何の変哲もない透明なビニール傘を差し出してきた男の声は、見た目から想像していたより幾分低い。そんな感想を紫月が持った瞬間、すぐ横で停車していた電車のすべてのドアが、音を立てて一斉に閉まった。 「ああっ…」  思わず声を漏らしたのは、紫月の方だった。 「すみません。ここ、降りる駅じゃなかったですよね」  目の前にいる彼が毎朝、紫月が電車から降りた後も車両に残っていることを、紫月は知っていた。 「はい。でも、出社時刻にはまだ余裕があるんで、大丈夫です」  恐縮する女性を安心させる為の笑顔を作った男は、「そんなことよりも」という目配せをし、紫月に向かって傘を再度差し出した。紫月は会釈しつつ礼を言い、その傘を受け取った。それからは申し訳なさに伴う気拙さに、もう一度頭を下げつつ男に背を向け駅の改札出口に向かって歩き出し、その場を後にした。  その後、職場の雑貨店に着くまでの約五分の間、ビニールの上を流れる雨粒を傘の下からぼんやりと見つつ、紫月の頭の中は親切にしてくれた男性のことで占有された。  彼が電車を一本遅らせてまで渡してくれた忘れ物のこの傘は、たった数百円でどこででも買えるビニール傘だ。お陰で駅から店に着くまでの間に濡れずに済んだが、それも、駅の売店やコンビニで傘を購入すれば免れたこと。その程度の赤の他人の持ち物の為に、通勤の電車を一本遅らせてしまい、悪いことをしたと思った。  しかし、罪悪感を感じるのと同時に、毎朝通勤電車で目にし、話す機会は無くてもその外見に密かに好意を抱いていた自分と同じ年頃の男性と、ほんの僅かだが話せる機会を持てたことに、少々気分が浮き立ってしまってもいた。  次の日の朝、紫月がいつもの時間いつもの車両に乗り込むと、やはり、あの男性はいた。紫月より先に、男性の方がドアから入った彼女に気付いていたようで、目が合うとすぐに会釈してきた。  男性はちょうど真ん中の座席の前にぶら下がる吊り輪を握っていて、ほどほどに混んでいる車両の中、彼の右横のスペースはぽっかりと空いていた。紫月はほんの一瞬迷った後、立っている乗客たちの間を分け入り、男性の右側に納まった。 「その、昨日はありがとうございました。お陰さまで、職場まで濡れずにすみました」  ささやかな親切をしてくれただけの相手に対して、馴れ馴れし過ぎはしないだろうかとは思ったが、簡単な会釈だけで済ませては却って失礼だろうと、紫月は左斜め上に向かって話しかけた。 「それは、よかったです」  男性は少しぎこちない感じで紫月に応じたが、迷惑という風には見えなかった。 「あの後、大丈夫でしたか?」 「え?」 「出社時間とか…」 「ああ、はい。それは、全然」  二人の間で交わされた初めての会話らしい会話は、至極ギクシャクとしたものだった。  傘の一件を切っ掛けとして、それ以降、紫月とその男性は通勤電車の車内で頻繁に会話をする仲になった。  始めの内は、偶々車内で二人の場所が近くなった場合にだけ、隣同士で立ち、それ以外の時は互いに簡単に会釈をしあうだけだったが、二人で通勤を共にする時間が長くなるにつれ、男性はあえて空いている場所に立ち後から電車に乗る紫月を待つようになり、紫月の方も男性の右隣りに空いたスペースは当然自分が立つべき場所なのだと認識するまでになった。そうして、二人の間で毎朝欠かさず言葉を交わすことは当たり前になっていった。  もちろん、二人はお互いの名前も齢も知った。男性は名前を近田蒼吾(ちかだそうご)といい、齢は二十七で紫月より一つ下だったが、学年は同じだった。同じ時代を同じ年齢で過ごした二人は、子供の時から学生時代までの流行りものが共通していて、話せる話題が多かった。しかし、出身地が違う二人は、より地元に根差した事柄に関しては異なる点が多く、それはそれでお互いに新鮮味を感じ、話が尽きなかった。  紫月の方から、休日何をしているかという質問にかこつけて、近田に現在恋人がいるかどうかを探りを入れたことがあった。近田は休日の半分を平日疎かにしている家事を片付けるので潰し、もう半分を一人で映画鑑賞をするのに使っていると答えた。  興味深げな調子で頷きつつ、「一人で」の部分を近田に強調され質問があからさま過ぎたかもと気恥ずかしくなった紫月だったが、近田からも同じ質問を返され、自分も似たようなものだと、遠回しに彼氏がいないことを伝えたのだった。  世間が盆休みに入ったその時期、皆が休む時こそ勤め先の店の稼ぎ時である紫月と、家庭持ちの休暇が優先される会社の社員である近田は、相変わらず毎朝同じ通勤電車に乗っていた。  その朝は、時期的に空いた車内でちょうど二人分の空席ができ、珍しく座席に並んで坐った二人は、向かいの車窓に映る風景を眺めながら、どうということもない世間話をしていた。  電車がある駅で、シネコンが入った建物の真ん前に停車した。駅に向いたビルの大きな壁一面を、現在公開中の映画の宣伝ビジュアルが占領していた。 「あれ、観に行きたいんだよな」  そう近田が言ったのは、シリーズ物のカーアクション映画の最新作だった。 「観に行きたいと思った時に行かないと、あっという間に公開終わっちゃいますよ」  紫月が何気なく軽く警告したのに被せるように、「板倉さん、一緒に行きません?」と近田が聞いてきたので、紫月は一瞬、彼の言葉がまともに頭に入ってこず、「はい?」と聞き返してしまった。 「…あー……、趣味じゃありませんよね。単館系のおしゃれな感じのが好きなんでしたっけ」  勝手に諦めようとする男を前に、ようやく自分が誘われたのだと理解した紫月は急いで返事を返した。 「アクションも観ますよ。ああゆうの、小さい画面で観るのと映画館で観るのとでは全然違うし、音響も迫力ありますし、行きましょう。映画観に行くなんて、なんか、夏休みっぽいですし」  つい早口気味になってしまい、ちょっと必死過ぎたかと言い終えた後で化粧の下の顔を赤くした紫月だったが、言われた方の近田は顔色を隠せる要素を備えていなかったため、あきらかに顔を紅潮させた。 「だったら、……板倉さん、土日は確か仕事ですよね?今度の金曜の仕事終わりとか、どうですか?」  紫月がスマートフォンでシフトを確認すると、金曜日は夕方で早めの上がりになっていた。  二人はその場で金曜日の午後六時半に映画館前で待ち合わせることを決めると、その後はいつも通りそれぞれの駅で電車を降り、仕事場へと向かった。ただ、少なくとも紫月の方の心持ちは「いつも通り」とは程遠く、何年かぶりに感じる恋の予感にのぼせ、職場に着いた後も後輩にからかわれるくらいだった。  その金曜日はトラブルの気配も無く、何もかもが恙無く予定通りだった…昼過ぎあたりまでは。それが、三時半を回った時に店に入った一本の電話で、急変した。  本部が突然、店長らに呼び出しを掛けてきた。紫月は急いで店での業務を切り上げ、都心にある本社へと向かった。移動中の間には、近田との待ち合わせにはきっと間に合うだろうと楽観していたが、いざ会議室に着き本部の人間の険しい表情を見ると、これは長引きそうだと察せられた。  息が詰まるような会議が始まってから一時間が経ったところで、紫月はこっそり会議室を抜け出し、エレベーター前のホールで待ち合わせ場所に行けない旨を近田に連絡しようとした。そうして、紫月は気が付いた。  近田の、連絡先を知らない。あの、予定を確認するためにスマートフォンを取り出したその時、何故そのことに思い至らなかったのだろう。デートの約束を取り付けたことで、紫月もそれから、きっと近田の方も舞い上がってしまっていた。  足元から天井まで延びるガラスの先、ビルの高層階から見える夕方の街には、雨が降り始めていた。  理由が理由なだけに、きっと近田は話せばわかってくれるだろう。どうせ、今日金曜にすれ違った彼とは、三日後の月曜には会えるのだ。そう思い会議室に戻った紫月だったが、当ては外れた。長引いた会議の最終盤、紫月は売り上げが伸び悩む、担当とは別の支店の監督係を言い渡された。それは次の月曜から一週間の間、ということだった。  紫月の仕事ぶりを評価されての采配とはわかったが、紫月の頭の中を第一に掠めたのは、仕事とは全く関係の無いことだった。デートの待ち合わせに来なかった相手が、次の一週間、いつもの電車に姿を現さなくなったなら、どう思うものだろうか。「避けられている」、そう思われて当然だろう。そんなつもりはないのに。  しかし、そんな個人的な事情で会社からの指示に従わないわけもなく、紫月は一週間経てばどうとても釈明できるとあえて軽く考ることにし、気掛かりは残しつつ、その後の一週間、仕事に専念して過ごした。  監督役の職務を全うした紫月は、元通りの店の勤務に戻った月曜日から、以前と同じ電車を通勤に使うようになった。しかし、そこに近田の姿は無かった。  振られたと思い込み、振ってきた相手の顔を見たくなくて使う車両を変えたのだろうかと、紫月は普段使うのとは違う車両を覗いてみたり、時間が一、二本は早めの電車に乗ってみたりしたが、見馴れた背筋の伸びたスーツ姿は見当たらなかった。  そうこうしているうちに更に一週間の時が過ぎ、紫月の遅くて短い夏期休暇が始まってしまった。  会えていない近田のことばかりを考え、碌に休んだ気にもなれないまま休暇を終えた翌日の、秋雨が降る月曜日、紫月はいつもの時間いつもの車両で、ようやく近田の姿を見つけることが出来た。ただ、その朝、紫月が車両に乗り込むと近田の右横はすでに他の人物で埋まっていた。  紫月は久し振りに会えた思い人を前に、小さなことは気にもせず、かろうじてスペースが空いていた彼の左横に回り込むと、「お久しぶりです」と、近田に声を掛けた。 「あ…おはようございます」  その様子は、紫月が初めて彼に話しかけた時の様子に似ているようで、しかし、少し違った。 「いつかの金曜日の約束、行けなくてごめんなさい」  まず何より先に紫月は約束を反故にした件について謝り、ここ三週間何度もシミュレーションをした通りに、事情を詳しく説明した。近田に怒っている様子は無かった。しかし、仕事の都合で致し方なかったという事情を知っても、喜んだ様子はなかった。紫月は、違和感を感じた。 「元の店に戻った二週間前、またこの電車使ってたんですけど、近田さん、見つからなくて…」 「先々週が、休みの週だったんです」  そっけない返事の後、ああ、それでと言ったきり紫月は何となく、近田の顔を見ていられなくなって顔を俯けた。  ふと、近田の手に握られた二本の傘が目に入った。一つは、紫月があの時忘れ、今日手にしているのと同じような白い持ち手の透明なビニール傘。もう一本は、コーラルピンクに白い水玉の……女物の傘だった。  それだけでは、詳しい事情などわかるわけもなかった。けれど、紫月はそれだけで、違和感の正体の何もかもがわかってしまった。  たった、三週間だ。その直前に振られたと思われていたとはいえ、たった三週間、謝れず、言い訳も出来ないでいただけで、彼は気持ちを向ける方向を、まったく別に変えてしまった。  彼の手に握られた可愛らしい傘の持ち主は、どんな女性なのだろう。紫月には傘一本だけで、持ち主の容姿や年頃を当てるなんてことは出来ない。しかし少なくとも、安物のビニール傘で間に合わせている自分より、余程行き届いた女性なのではないかと思われた。  ぐるぐると頭の中を考えても仕様の無いことで一杯にしているうちに、電車は紫月が降りるべき駅に到着した。紫月が「それじゃ」と一言だけ近田に声をかけると、彼の方も短く「あ、はい」と言うだけだった。そういえば、対象外の女性に対する男性の態度というのはこういうものだったっけ。知っていた筈なのに、ここ数ヶ月すっかり忘れていたことを急に思い出した。  ホームの階段を上がり、改札を抜け、職場に向かう約五分の間、車両を変えるか、電車の時間を早めるか、どちらにしようか…。紫月は透明な傘を流れる雨粒も目に入れず、明日から近田に会わないで済む方法ばかりを、歩きながら懸命に考えた。
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