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雨が降り続く日々を経ながら、外はだんだんと暑くなる。
リュックに汗が染み込んで臭いだすのを恐れた満矢は新しいリュックを買った。これも立派な予防線である。そう言い聞かせて贅沢をしたというだけかもしれないが……。
いい気分で出社をしたのだが、事務所の前で置き傘を見たときに思い出したのだ。折りたたみ傘を新しいリュックに入れ替えるのを忘れていた。
忘れ物をしたというだけで気分が良くないが、今日は降らない予報だ。心配することはない。気を取り直して仕事をしたけれど、夕方になると雲行きが怪しくなってきた。
もしかしたら帰るぐらいの時間に一雨降るかもしれない。
天気予報よりも実際に雲行きを見ている方があてになるようで、やはり雨が降り出してしまった。
後輩たちは定時で仕事を終えて早足で帰宅を始める。満矢も今日は早めに切り上げようと思った。
もう置き傘は使われているかもしれない。やっぱりもう一つ傘を買っておくんだった。こんなにも不運が重なるだなんて予想できなかった。
置き傘を使っている人には悪いが、まだ置いてあったら傘を使わせてもらおう。コンビニまで走って、傘をもう一本買えばいい。
帰る支度をして事務所を出て、傘立てを見た。
「あっ……六経先輩。早いですね」
いつもコーヒーを入れてくれる彼女。仮の文通相手。御咲がちょうど傘をつかんでいたところだった。その傘は満矢の置き傘だった。
「…………その傘」
「やっぱり六経先輩の傘だったんですか!? たぶんそうだろうって思ってたんですけど、お手紙の感じが全然違ったので、勘違いかと思ってました」
手紙の感じ、とはどういう意味だろう。レターセットがかわいすぎただろうか。それとも、御咲が抱いている満矢の印象と違う文面だったということだろうか。
普段はいろいろ考えていて、対面して話していると考えがまとまらなくて、口にする前に会話が終わっているだけで、本当はたくさん伝えたいことがあるんだ。
そう言いたくても、やはり満矢は考えをまとめられない。先に御咲が話し始めてしまう。
「折りたたみ傘は今日も持っているんですか? いつも持っているから使っても構わないって書いてましたけど」
「今日は持ってない」
新しいリュックを買ったから、中身を入れ替えたんだ。その時に折りたたみ傘を入れるのを忘れた。やっぱり俺は几帳面じゃない。
そんな風に言えれば、新しいリュックのことで話題が広がるかもしれない。こんなときに雨が降るという不幸を笑いの種にできるかもしれない。
手紙を書き始めてから、もっといろんなことを頭で考えるようになった。無機質に思っていた自分も、コーヒーをいれてくれるのが嬉しいとか、雨の日は嫌いじゃないとか、かわいいレターセットが好きだとか、本当に人間らしいやつだと気づいた。
仕事中に雲行きが怪しくなってきて、折りたたみ傘を忘れたからまずいなと思いながらも、次に書く手紙のことに想いを馳せていた。
たくさん伝えたいことがある。でも、重い口が邪魔をする。
長い間、雨の音だけが聞こえていた。
「……じゃあ、駅まで一緒に行きますか?」
それを聞いたとき、ちょうど雨の音が聞こえなくなった。一緒に駅に行く必要がなくなってしまったと思ったけれど、それは錯覚だったようで気持ちが落ち着くと、満矢の耳にまた雨の音が聞こえてきた。
御咲は傘を広げて満矢を入れた。ぽつぽつと雨粒が傘を鳴らす。
距離が近すぎて、ただでさえ重い口が固まってしまう。けれど、満矢はこれだけでも言わないといけないと、自分を奮い立たせてなんとか口を開く。
「また……手紙を書いてもいいか?」
「もちろんですよ! また傘をお返しするので、傘に投函してください。私もお返事を書きますからねっ!」
駅に着くまでの間、御咲の好きなマンガの話を聞く。満矢は読んでいないのに、そのマンガの絵が頭に浮かんでくる。満矢は一言も返事をしない。返事するのがもったいないとすら考えるようになった。
マンガの話の感想は手紙に書こう。一度家に帰って、雨が降っているけど外に出て、カフェでゆっくりと書くのもいいかもしれない。
満矢はきっと御咲とカフェで会ったことを思い出す。そのときにどんなことを考えたか、また別の雨の日に書こうと決めた。
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