傘文通

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 六経満矢(りっけいみつや)は折りたたみ傘をいつもリュックに入れている。普通の傘は手が塞がってしまうし、都会はゲリラ豪雨があるから、いつ降ってくるか分からない。  だが満矢はそれだけでは安心しない。家に傘をもう一本買ってあり、会社にも置き傘をしてある。仕事でも言えることだが、予防線にはもう一つ予防線を張るべきなのだ。  事務所でコーヒーをいれてくれる後輩に「几帳面ですね」と言われるが、几帳面でないから失敗に対して予防しているという感覚を満矢は持ってる。  そんな説明をゆっくりとしたいのだけれど、説明をするためのセリフが整う前に、彼女はどこかに行ってしまう。これもいつものこと。だから、満矢は几帳面で寡黙な人間だと思われている。印象というものは第三者が見て決めるものだから、それで問題ないのだろうけれど……。  几帳面な満矢は折りたたみ傘を出して、事務所を出て傘立てを見たときに気が付いた。 置いてあった満矢のビニール傘が消えている。  けれど、さほど驚かない。これは二度目の出来事だったからだ。  最初に傘が消えたときは多少驚いたが、誰か盗っていったんだなとあまり心に留めなかった。大通りに面した一階の事務所だから通行人も多い。事務所の人が使ったのかもしれないが、それなりに人数を(よう)している事務所なので誰なのかは分からない。  その傘は次の日に戻ってきていた。自分の傘か確かめるために、開いてみると一枚の紙片が舞い落ちてきた。 『急な雨だったのでお借りしました! ありがとうございました!』  かわいらしい丸文字で書いてあった。そのメモは満矢のデスクの引き出しの隅っこに入れてある。  だから一度目は事なきを得たのだが、まさか二度までも持っていかれるとは……。返ってくるならいいのだけれど、期待するのも変だ。  傘が持っていかれるのなら、その予防線を張るためにもう一本傘を買うべきだろうか?  いやいや、それはやり過ぎだ。さすがの満矢にも分かった。  とりあえず明日まで待っていよう。明日は晴れの予報だから、もし新しい傘を用意するのだとしても焦ることではなかった。
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