前編

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前編

 思わず舌打ちをした。講義棟から出た途端、辺りを梅雨の湿気が立ち込める。これではセットした髪も午後には広がっていくだろう。  約束の時間まではあと五分。徒歩三分はかかる二号館で落ち合う予定だ。  時間は差し迫っているが、絡みつくような暑さで走る気にはならない。強歩で進みながら、軽く苛立った。  二号館の十七階。一七〇二号室。そこが俺の目的地だった。  二号館に入館し、エレベータに乗る。約束の時間まではあと二分。  エレベータの表示が目的の階へ近付くのをイライラと眺めながら、俺はここに来なければならなくなった理由を思い返した。     ◇  始まりは二ヶ月ほど前に遡る。オフィスが都心にほど近い企業から、内定の通知が来たことが契機となった。俺は社会勉強も兼ねて、四月から一人暮らしを始めることにした。  場所は中央線沿い。通勤時間はドアトゥードアで三十分程度。付近にはコンビニやスーパーもある、利便性の高い単身者向けのマンションだった。  マンションの築年数は二十年程。外観は少し古ぼけていたが、部屋は白い壁紙にフローリング敷きで、清潔感のある部屋だ。風呂とトイレも別で、寝室とリビングを兼用するワンルームもそれなりの広さがあった。  それでいて家賃は相場よりも同じか少し安いくらい。  俺は訝る気持ちもあり、内見に同行していた不動産業者に「何で相場よりも安いんだ」という質問を投げかけた。  しかし、不動産業者は苦笑いをし、答える代わりに、曇りガラスの履き出し窓を開けた。  見ると、ベランダから手を伸ばせば届きそうな距離に、隣接する建物が建っていた。それは、真昼でもあまり採光が望めないことを意味していた。  同行した担当者は俺の予想通りのことを言った。そして、付け加えるかのように「そのせいか、湿気が溜りやすいんですよね」と呟いた。  確かに昼間の時分なのに部屋は仄暗い。「日照時間と湿気って関係あるのか」程度に思っていた。  しかし、この立地でこの値段はありがたい。  その日他の物件も何件か見たが、最初に見たその物件以上の部屋を見つけることはできず、面倒だった俺はほぼ一択で借りることに決めた。    引っ越しをした俺が、最初に違和感を抱いたのは四月の半ばのことだった。  所属するサッカー部の飲み会から帰ってきた俺の元に、ゼミの教授のリマインダーが入った。卒業論文のテーマ提出日が翌日に迫っているという知らせだった。  すっかり失念していた俺は、仕方なく酔った頭に鞭打って、ラップトップに向かった。  書き始めて一時間ほど経った頃だろうか。時計を見ると午前一時を回っていた。 何か飲むものをと立ち上がった俺は、オープンキッチンから  ――…ズズッ という音がしたのを聞いた。  何か落ちたのかと思い、イラつきながらキッチンへ向かうが、特に形跡は無い。 勘違いかと思い、紅茶を淹れてデスクに戻る。文字を入力していると、今度は自分の背後から  ――…ズッ という音がハッキリと聞こえた。 自分の頭上よりは下で聞こえた気がして、振り返った視線を下へ向ける。  やはり、そこには何も無かった。  正確に言えば、自分が寝ているベッド、サイドテーブル、以上。  またしても勘違いをした自分に腹を立てながら、再びラップトップに向き合ったその時だった。  ――バシャッ!  水が零れるような音がして、身体が跳ねた。  何か液体が天井から落ちて来た、と思った。しかも、少し体積が多い、粘度の高い液体が床を打つ音。今度は気のせいじゃない。はっきりと聞こえた。状況を考えている間も、首を後方に向けていく。 『やめろ。やめろ。振り返るな。振り返ったら最後だ』 頭がそう警鐘を鳴らしているのに、ゆっくりと導かれるように首は後ろへ回っていく。緊張で、思わず息が上がる。 そして遂に、首が後ろに回り切った。 がしかし、そこには何も無かった。  俺は息を整えつつ、頭の片隅で思考を始めた。普通に考えたら家鳴りだろう。良く聞く話だ。…しかし、家鳴りは天井からするイメージだ。そうでなくても、軋むような音を発する、というの想像していた。 何かが落ちるような音が聞こえるというのは、初めての経験だ。 ―…何かが近づいてくるような、焦らすような、生温いような感触がゾワゾワと自分の肌を這い回り、落ち着かなかった。  うすら寒さを覚え、課題を遣っ付け仕事のように片付けると、その日は眠りに就いた。    それから暫くは、家で音を聞くことは無かった。あの特徴的な、水のような音もしないため、俺の頭からは音のことが薄れていく。 「マンションの水道管がおかしいのかもしれない」と思っているうちに、月も終わりに近付き、ゴールデンウィークに入った。  その日は部活の仲間と、引っ越し祝いを兼ねて、俺の新居で宅飲みをする予定になっていた。  サッカー部の同期でも特に仲の良い三人と宅を囲み、世間話に花を咲かせる。 「宮沢、なかなかいい家じゃんか」  主将の流が、部屋を見回しながら白い歯を見せ、にっかりと笑う。手元では、今日のメインディッシュの水炊きを掻き混ぜる。 「でしょ?でもこの部屋相場と比較して安いんだ」  俺は、少々季節外れの水炊きを、流から受け取りながら答えた。 「え、それって幽霊出るとか?」  不安そうに聞いてきた親友の矢島の様子に、本日の紅一点、マネージャーの長井が、コーラをグラスに注ぎながら、カラカラと笑い声を上げた。 「矢島君ビビり過ぎ!…でも宮沢君、本当に何かあるの?」  少し顔が曇る長井に、俺は笑いつつ手を振る。 「そんなわけないない。他の部屋よりも日当たりが悪くて湿気が溜るんだって」  そう言いながらも、先日の音のことが頭を過る。家鳴りかもしれない、水道管が悪いのかもしれないと思おうとはしている。 しかし、最後に自分の後ろで鳴った大きな音はずっと気にかかっていた。 「まあ、それだけのデメリットでこんないい部屋に住めるんだから僥倖じゃないか」  流はそういうと、わははと笑った。それもそうだと、流に合わせて微笑む。空気が和んだところで、矢島が「ツマミでも作るか」と、キッチンへ向かった。 矢島は料理が上手かった。冷蔵庫の中のありもので、軽いツマミを作るのは簡単なことだった。  矢島以外の三人で水炊きを楽しんでいると、矢島が「何してんのー?」と言う声が聞こえた。意味が汲み取れず三人で顔を見合わせる。長井が「矢島君、どうかした?」と声をかけた。  矢島は 「何してんの?」 と、もう一度聞いてきた。  長井は俺たちの顔を見た。俺と流は頭を振る。長井はキッチンに顔を向けると、矢島に「話してただけだけど」と返事をした。  すると、鍋と対峙していた矢島が初めて顔を離してこちらを見た。 「今の音何?」  俺たち三人はもう一度顔を見合わせたが、矢島の言った意味が理解できなかった。 「今、何か…『ズズッ』ていう音聞こえなかった?」  再度、矢島の問いを聞いたとき、俺が思い出したのは先日の音だった。「ズッ」というあの音。もし、彼にも同じものが聞こえていたとしたら?  そんな考えを振り払って、俺は「聞こえなかったけど」と、水炊きを口に入れた。その時だった。  ――…ズッ…ズッ…  リビングダイニングと、玄関を隔てる扉。その扉の向こうから音が聞こえた。  長井が首を傾げ、俺を見る。 「宮沢君、誰か他の人呼んだの?」 「いや」  俺は立ち上がり、玄関へと向かう。扉を開けたが、特に異常は無い。何か跡は無いか、と床に手を付けた時だった。  リビングから「ギャッ」という声が聞こえた。続いて、ドタドタドタ、という音がする。その後、三人が団子のようになって玄関の方へと飛び出してきた。 「どうしたんだ?」  声をかけると、流が俺の手を引きつつ靴を履き始めた。問いには答えず、全員で部屋を飛び出す。 無言でエレベータに乗る三人は、心なしか青い顔をしていた。 そして、マンションを出た足で、近くのファミレスに俺ともども流れ込んだ。  席に着く俺たちの焦燥ぶりに、店員は戸惑いつつ水を置いて行った。  流は水を一息に飲み干すと、一息吐いて俺に視線を向ける。 「お前…今日は本当に俺たち以外誰も呼んでないんだよな?」  質問の意図が読めず、俺は先ほどの言葉を繰り返した。 「呼んでないよ。絶対」  テーブルに顔を伏せていた長井が、そのままの状態で、声を震わせながら言葉を発した。 「じゃあ、さっきの人は誰なの?」  質問の意図を図りかね、「さっきの人って?」と訊くと、矢島が俺をねめつけ、叫んだ。 「窓に張り付いてきた女だよ!」  意味が分からなかった。俺の部屋は五階だ。そんなところに外から女が入って来れるわけがない。 「な…なんだよそれ…」  俺の困惑ぶりを一瞥した流が、矢島の肩を叩き宥めた。矢島を宥める傍ら、ポツリポツリと話し始める。 「…お前が廊下に出た後、ベランダの方から物音がしたんだ」  よく見ると、矢島の肩を撫でる流の手もガタガタと震えている。 「見たら、窓に白い女が張り付いていた」  流曰く、その女は顔面蒼白、かつ白いワンピースのようなものを着て、掃出し窓に額、手のひら、身体をべったりとくっ付けていたそうだ。  目は見開かれ、口はぽっかりと開けられているのが、曇りガラス越しにわかったという。  そのあまりにも異様な光景、そしてあまりにも典型的な人外の様相に、三人は一瞬呆然としたという。  その後悲鳴を上げて、俺の手を引き何とかここに辿り着いたということだった。 「お前、あそこは出た方がいい」  流は真剣な顔で俺に告げた。  勿論、女を見ていない俺にとっては俄かに信じられるものでは無かった。だが、三人の狼狽ぶりを見るにつけ、何となく背筋の寒い物を感じざるを得なかった。  その後、幸か不幸か、俺の前にその女が現れることはなかった。  俺には見えずとも、そこにいるのかはわからない。だが相変わらず、あの「ズズッ」という音は続いていた。  幾度となくその音を聞くうちに、俺の脳裏には部屋を徘徊する女の図というのが出来上がっていく。  わからないのは「バシャッ」というあの音だった。女が徘徊しているだけで、あの水音は出るものだろうか?だが、例えば女が濡れていたらどうだろう。溺死していたら?ずぶ濡れの女が窓に手を付く音なのではないかと、そんな想像をしてしまう。  そうなると、つまるところ家に帰りたくなくなる。飲み明かして誰かの家に泊まったり、親しい友人を呼びだして、オールしたりして過ごす。 勿論、そうしてばかりもいられない。資金は尽きる。しかたなくマンションに帰るのだが、その夜は眠れないか、寝つきが頗る悪い。  そのうちに、寝不足の日々が続き、体重も幾分か落ちてしまった。  久々に自宅で浅い眠りにつくことができた翌朝、鏡に映る自分は随分とやつれて見えた。指を顎から頬のラインへと這わせると、以前よりも骨ばっているのを感じることができた。  長井に会うのは約半月ぶりだった。  例の出来事があった後、何となく三人と連絡することを控えていたのだが、長井の方から「大丈夫か」というメッセがあった。それを口切に、学内のカフェで会うことになった。  久々に俺を見た長井は、俺を見て些か驚いたようだった。大きな瞳が心配の色を覗かせる。 「大丈夫?だいぶ痩せたんじゃない?」  俺は「ああ」と返事をして、今の窮状を訥々と長井に説明した。長井は俺の言うことを黙って訊いていた。  話を訊き終っても、長井は黙っていた。沈黙に耐え切れなくなり、俺は口火を切る。 「気のせいだって、わかってるんだ。気にしすぎなんだよ、俺」  しかし、長井は何も言葉を発しない。俺の身を案じているのかと顔色を窺えば、どうやら何か考え込んでいるようだ。  「長井?」と二度ほど声をかけるが、気が付いていない。  俺は少し呆れつつ、「そういうことだから」と席を立とうとした。  俺の状態に漸く気付き、長井は「待って」と言葉を発した。 「待っても何も、できることなんて何も無いんだ。今日はこれでいいでしょ」  俺は、俺を心配してくれない長井に苛立っていた。『こっちはこんなに衰弱しているのに』と考えながら、再度立ち去ろうとする。  すると、「待ってって言ってるじゃん」と、長井が言葉を荒げた。俺は立ち止まり、振り返った。こんな長井は珍しい。  当の長井は困ったような顔をしていた。怒っているのかと見当を付けていたために、全く状況が読めない。すると長井は恐る恐る、という風に口を開いた。 「…ゼミの後輩に、やたらそういうのに詳しい子がいるの。その子に宮沢君の話、してみるよ」 「本当に?」  思わず、間髪入れずに返してしまう。 「…正直、詳しくても対処できるかはわからないし、言うのは控えてた」  こんな状況でも無ければ、長井の言うとおり、そんな奴のことは笑い飛ばしていたに違いない。  しかし、今は藁にも縋る思いだ。 「ごめん。その子紹介してくれない?」
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