前編

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◇ 十七階でエレベータを降りた俺は、廊下を北側へと進み、一番奥の一七〇二号室の扉をノックした。  扉の脇に掛かっているプレートをチラリと見ると、部屋番号の下に「有松」と書いてある。恐らく教授の名字だろう。  中から「はーい?」という声がした。返事をしたのが例の奴なのかを図りかねて、とりあえず「約束していた宮沢です」と返事をした。  少し間があった後、扉がガチャリと開いた。三十代後半だろうか。頭にチラチラと白い物が光る男性が立っていた。 「んーと」  男性はきょとんとした顔で固まっている。 「もしかして、野々市君のお客さんかな?」  俺は長井から聞いた後輩の名前はどんなだったかと記憶を手繰り寄せる。「社会学科の野々市君て子なの」と言っていた気がする。  俺の状況を知ってか知らずか、男性は微かに笑う。 「まあ、そうなんでしょ。彼、今ちょっとお遣い頼んでて、席外しているんだ。もう少しで帰ってくると思うよ」  そう言うと、男性は俺を中に招き入れた。  室内は十二畳ほどだろうか。約半分ほどの位置に、全段びっしり本で埋められた大きな書棚が配置され、部屋が半分に区切られている。入口の対面は窓になっているため、棚は置けないようだが、入って右手と左奥にも背の高い書棚が隙間なく置かれ、天井までびっちりと本が詰められていた。  入口側の空いたスペースには四足のテーブルとパイプ椅子が四脚置かれ、応接スペースのようになっている。  男性はパイプ椅子のうちの一脚に手を向けて、俺に座るよう促す。俺が座ると、ドアの横にあった冷蔵庫の方へと向かう。  「コーヒーは飲めるかい?」と背後から声がしたので、「飲めます」と返事をした。  暫くして、背後から豆を挽くようなゴリゴリという音がして、香ばしい匂いが立ち込める。この男性は俺のことをもてなしてくれるらしい。  それにしても、野々市という後輩は何をしているのだろう。  この時間を指定してきたのも、野々市だった。指定した本人が来ないのは何とも癪に障る。俺だって暇じゃないんだ。この後、友達との約束だってある。  そんなことを考え、イライラと貧乏揺すりをしていると、目の前にコトリ、とカップが置かれる。 「一応、好きな豆屋さん独自のブレンドだから、味の方は保障するよ」  男性はそう言うと、にこやかに笑った。  口を付けると、舌に残る強めの苦みと、微かな酸味が広がる。正直、コーヒーの善し悪しはイマイチわからないので、「美味しいです」と返すと一気に飲み干した。  男性が「野々市君来るまでちょっと待っててね」と言った時、部屋の扉がガチャと開いた。 「教授ただいまー…って、もしかして宮沢さんですか?」  入って来たのは、目のくりくりとした短髪の青年だった。大学生のはずだが、実年齢よりは些か若く見える…気がする。  こいつが野々市だろうか。  俺が立ち上がって自己紹介をしようとした時、扉から更に人が入って来た。 「有松さん、買い出し終わりました、…って来客あるなら事前に教えて下さい」  入って来た男は、コーヒーを出してくれた壮年の男性を見つめた。長い黒髪を後頭部で一括りにした、背の高い男だった。全体的に整った顔立ちをしている。成りを見る限り、院生といった雰囲気だった。 「僕のお客さんじゃないよ。野々市君に」  壮年の男性が言うと、長髪の男の視線は短髪の青年へと移る。 「お前か」  短髪の青年はそれを無視して、俺に一礼した。 「遅れてすみません。野々市って言います。今日は来て頂いてすみません。先約の関係でどうしても二号館が都合が良くて」  先に挨拶をされた俺は慌てて頭を下げる。 「宮沢です。長井と同じ部活です。こちらこそ、ありがとう」  野々市はニコッと笑うと長髪の男を一瞥した。 「こっちは、僕と一緒に宮沢さんの話を訊く西念です。えと、有松さんにくっ付いて、色々してます」  西念と紹介された男は表情は変えず、目を少しだけ見開いた。 「俺はそんな話訊いてないぞ」 「今言ったでしょ?」 「そんなの知るか。俺は戻る」 「もう、融通効かないなあ!西念さんにもメリットあるじゃないですか!酷い」 「知るか」  そう言うと、西念と呼ばれた男は出て行こうとする。 「焼肉食べ放題!」  野々市が叫ぶ。それを聞いた西念は振り返らずにピタリと止まった。 「…わかった。訊こう」  西念が俺の対面に座ると、野々市は溜息を吐いてその隣に収まった。  俺は、四月からの一連の出来事を二人に話した。その間に壮年の男性―…有松教授が、二人にコーヒーを淹れた。俺には新しく紅茶を淹れ直してくれた。つくづく、人の好い教授だと思う。  俺の話を訊き終ると、二人は頭を捻った。 「…ということは宮沢さんは直に女は見ていないってことですか」  野々市の言葉に俺は頷く。 「ああ。俺自身は音しか聞いたことが無い」 「うーん、何かして欲しいことがあるなら宮沢さんの前に直接現れそうですけどねぇ」  野々市の言葉に西念が突っ込む。 「見てないのに憶測でモノを語るな」  西念の素性はよくわからないが、やけに酷い物言いだ。 『そういえば』と思う。 見る・見ない、と言えば、除霊は家に直接来る必要があるのではないか、と思い、俺は二人に尋ねた。 「除霊とかするなら、うち来ますよね?日程の摺り合わせとか…」 「あ、俺達そういう方向で『霊と言われているもの』に対処する力は無いんで、今の所必要ないです」  野々市は今とったメモを睨みつけながら、俺の言葉に返事した。  除霊ができないとはどういうことだろう。話が違う。 「どういうことだ?」  野々市に尋ねたが、今度は西念が答えた。 「俺達は別に『霊と云われるもの』が見えるわけじゃない。訳あってそういう話を訊くことが多いというだけだ。もともと、霊感があるわけでもなければ、除霊とかそういった類のことができるわけでもない。ただ、原因を探るだけだ」 「原因…?」  除霊もできないのにどう対処するのかわからない俺は困惑した。西念は続ける。 「例えば、一人の男の幽霊がある女性の自宅に出たとする。女性は霊をどうにか現れないようにしたい。俺たちはとりあえず霊の素性を調べる。調査すると、男性は部屋で餓死した人だった。 では、『食べ物を供えれば、男性の霊の気は晴れるのではないか』と考え、俺達は女性にアドバイスする。彼女は俺達のアドバイスを聞き入れた。 すると、それ以降男性は現れなくなった」  西念はコーヒーに口を付けた。カップを元に戻すと再び話し始める。 「もし、男性の幽霊が現れる動機が、女性が元恋人に似てるから、という理由だったとしよう。そうすると俺達には対処のしようが無い。男性の幽霊はその場所と、女性に執着してるからだ。それこそいわゆる除霊ってやつに頼るしかなくなる。女性には引っ越しを促すしかない。  調査方法の性質上、希望がかなえられることもあれば、無理なこともある。その分、俺達は報酬は貰わないし、案件は選ぶ。解決できないことがあるからだ」  俺は手元の紅茶を見つめた。揺れる水面に自分の不安そうな顔が映っている。 「宮沢さん、それでも良いっていうなら、俺達は調べる。だが俺達は俺達にできることしかしないし、できないんだ」  この二人が対処できなかったら、俺はあそこを越すしかないだろう。でも、それでも。 「調査を、お願いします」
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