後編

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後編

その後しばらく、二人から連絡は無かった。他の三人の連絡先や住所、不動産屋の連絡先は教えたので、連絡を貰う必要性は無かったが。 勿論、その間も部屋の異音は続いていた。しかし、二人に相談をし、いくらか安堵したためか、自宅に戻ることも以前ほど神経質に避けることは無くなっていた。睡眠も定期的に摂れるようになった。 これだけでも大きな変化だ。 有松教授の研究室を訪ねてから一週間後のことだった。 講義が終わった後に、突然流からメッセが入った。「最近体調が悪いと長井から聞いた」というような内容だった。 俺が「だいぶマシになった」と伝えると、流がホッとしたようなスタンプを送ってきた。 だがその後、ある言葉を続けた。 「お前のマンションについてわかったことがある。今から会わないか」  流は部室棟で筋トレをしているそうだったので、俺はその近くの食堂で待つことにした。  頃合いも良かったので、昼食を摂っていると流がやって来た。 「焼き鳥丼か、懐かしいな。よく五人で食べた。俺もそれにしようかな」 「相変わらず美味しいよ」  温泉卵の乗った、タレ味の米と鶏肉を咀嚼しつつ、合間に流に答える。  暫くして、流は麻婆丼を持ってやって来た。 「ありゃ、やめたのか」 「こっちが美味しそうに見えちまってなー」  流はそういうと、スプーンで麻婆丼を口に運んだ。俺は焼き鳥丼を掻き込むと「それで」と口火を切った。 「それで、何がわかったんだ」  自分の身体が少し強張るのがわかる。流は一体何を突き止めたというのだろう。  流はその前に、と言った。 「ごめんな、勝手に調べて。先週、西念さんとかいう人から連絡貰って、お前が参ってるって聞いて…。居ても立ってもいられなくて…」  流のその姿に少し目頭が熱くなる。 「いや、大丈夫。全然気にしていない」  流は少し微笑んだ後、話し始める。 「実は、西念さんから電話貰った後、お前のマンションの不動産屋に問い合わせてみたんだ」  流はそういうと、水を口に含んだ。 「そうしたら、お前の住んでいるあの部屋で、以前自殺者がいたことを訊いた」  俺は何と答えていいかわからなかった。不動さん屋は特に自殺については言及していなかった。なぜ、俺の入居の際言わなかったのだろう。 「自殺者って…」  それ以上の言葉が出てこない。あの音は、三人が見たという女は、その自殺者なのだろうか。 「死因とかは…」 「自殺者がいたこと以上の話はしてくれなかった」 「だって…告知義務もあるはずだろう」  事故物件なら事前に入居希望者に説明があるはずだ。そう思った俺の考えを否定するように、流は首を横に振る。 「いや。死人が出た後、一度入居があった部屋というのは、その人が退去した後の入居者には告知義務が発生しないはずだ」  流の説明を訊いて、俺は血の気が引いていくのを感じた。 「そんな…」  流は麻婆丼を執拗に掻き混ぜた。 「それに、あの西念とかいう人たちも大丈夫か。あの人たち、本当にお前の家のこと、ちゃんと調べてるのかよ。俺が今日言ったこと、お前さっき知ったんだろ」  俺は流の問いかけに答えられないでいた。  その後も、研究室の二人からは連絡が無いまま、時間だけが過ぎて行った。  流から自殺者の話を訊いて以来、俺は再び音に過敏になっていた。気温も真夏に向けて上がっていくため、眠れない夜も増える。  そんな中、矢島から電話が入った。流と同じく、長井から連絡がいったようだった。 「お前、大丈夫なのか」 「大丈夫」 「本当かよ、流と長井から、かなり痩せたって訊いたぞ」 「大丈夫だって」  俺は語気を強めた。何となく、矢島に弱みを見せるのは嫌だったのだ。 「…今日、泊りにいっていいか?」 「…―別に」  しかし、正直心細さが勝った。俺は矢島と約束の時間を相談し、その場で一旦別れた。  同日九時。矢島は再び俺の家に来た。呼んでいなかった流も一緒だった。 「ごめん、矢島から話聞いてな」  俺は無言で二人を中に招き入れた。    音のする時間は以前から決まっていなかったが、その日は二人が来てからも特に鳴ることは無かった。  特にすることも無く俺たちは矢島と流の持ってきた酒で酒盛りを始めた。  酒が入ると、話に勢いが付き、先ほどまでの雰囲気が嘘のように場が明るくなった。  二人の買ってきた酒はあっという間に空になり、俺と矢島で二回目の買い出しに行くことになった。俺は流が心配になったが、 「お前は家いると息詰まるだろう。外の空気吸ってこい」 と笑顔で肩を叩かれた。  時間は十一時頃だろうか。しかし空が曇っているのか、星は見えない。夏特有の青臭い空気の流れる、生暖かい夜だった。 「…だいぶ、顔色良くなったな」  矢島がフと笑った。俺は少し気恥ずかしくなったが、矢島に伝える。 「…ごめん。ありがとう。今日、二人が来てくれて良かった」  目を見れない俺を、矢島は声を上げて笑った。 「そんなに気にするなって。あとは、あれだな」  俺は矢島の『あれ』の指す意味がわからず首を傾げた。 「『あれ』って?」 「お前、変な奴らに、部屋のこと相談してるんだろう?怪しくないか、そいつら。長井も詳しく知らないって言ってたし」  矢島は不安そうに言った。確か、流もそんなことを言っていたような気がする。 「あー…変な人たちだとは思うけど、そんなに怪しくはないかなぁ。話もしっかりしてたし」  そう言う俺を見て、矢島は溜息を吐いた。 「お前、性格悪いのに本当そういうとこ疎いよなぁ…。そういう奴らって、事前に金額とか提示しないで調査しといて、その後高額な金額ふっかけて来るんだからな」 「いや、報酬いらないらしいし…」 「またそんなこと言って。お前レコーダーで言質取って無いんだろ?そんなのいくらでも後から請求できるぞ」  矢島の指摘に俺は思わず納得する。 「それに、お前んちの変な音変わって無いみたいじゃないか。本当にそいつら対処してんのかよ」  それについては、事前に『調査はあくまで原因を探るものだ』という前置きがあった。だから大丈夫だ…と思いたい。 「とりあえず、気を付けろよな。お前、今弱ってるんだから。変な奴らに付け込まれるなよ」  そう言って、矢島は俺の頭をポンポンと叩く。子ども扱いされた気がして、少しムカついたが、心配してくれたことが嬉しかった。  二人で部屋に戻ると、流が「特に何も無かったぞ」と言いながら笑顔を向けてきた。  こちらも留守番の礼にビールを差出しながら、床に腰を下ろす。 「今日は音がしない」  俺は二人に向かって言った。二人は顔を見合す。 「二人がいてくれている御陰かもしれない。ありがとうな」  そう言うと、二人は照れたように笑いあい、 「恥ずかしいこと言うなよ」 「もっと飲め」 と酒を勧めてきた。  夜半を過ぎた頃、俺達は床に就くことにした。  流、矢島がそれぞれシャワーを浴びた後、俺が湯浴みをした。久しぶりに心が休まるような心地がする。浴室から出て部屋に戻ると、二人がクローゼットから寝袋と布団を出して敷いていた。 「中にあるって聞いたから、勝手に出したぜ」 「いや、ありがとうな」  気を利かせてるのか、厚かましいのか、二人の準備をぼうっと眺める。  ふと、二人が作業をしている背後のカーテンへと目が行く。閉めたはずのカーテンに二十センチほどの隙間ができていることに気付いた。  その隙間の先から。  白い服を着た女が、覗いていた。  女は窓にべったりと両手を着け、曇り窓越しに輪郭、髪型などがわかるくらい顔を近づけている。その顔は真っ白だった。  あまりにも強い恐怖に襲われると声が出ない、というのは本当だったのかと、どこか他人ごとのように思う。 声が喉に張り付いていて出てこない。全身の皮膚が緊張し、引き攣ったかのような感覚がして、身体も上手く動かない。  女のぱっくりと開いた目と口を見ながら、なんとか、 「あ…あ…」 という声ならぬ声を絞り出す。  ようやく俺の姿に気付いた二人が、怪訝な顔をした。 「宮沢?」 「どうしたんだ?何か苦しいのか?」  心配する二人に、何とか背後の女の存在を伝えようと、視線を女へと向ける。相変わらずそこにいるため、目を向けるのさえ恐ろしい。  二人が俺の視線に気づいたのか、後ろを振り返る。  途端、固まった。そして、「ぎゃあ」と叫び声を上げる。矢島がドアへと飛びついた。流は腰が抜けた俺の手を引っ張り、助け起こすと、なんとか引きずるようにして部屋を飛び出した。  外に出た俺達はとりあえずマンションから離れると、前回飛び込んだのと同じファミレスに入った。  誰かの部屋に行くことも考えたが、誰か人のいる場所に居たかった。  寝間着に靴をひっかけたような姿の俺達を見て、この前の店員が再び困惑した顔をしている。  俺は震えながら、店員の持ってきた水を見つめていた。  二人も黙ったままだった。  間もなく、店員が注文を取りに卓にやって来たとき、やっと流が「ドリンクバー三つ」と声を発した。  店員が戻っていくと、流はすぐに「あいつだ」と言って水を飲み干した。 「この前の女と同じ奴だ」  矢島は無言で首を縦に振った。 「お前、早く出ろ。あの部屋」  流が急かすかのように息巻く。 「あの人…野々市君に頼んでるから…」 「そんな悠長なこと言ってる場合かよ」  流の言うとおりだった。実家に戻れば、こんな怖い思いをしなくて済む。けれど、俺は。 「電話してみる」  俺はスマホを取り出す。 「おいっ」  流の制止も聞かず、野々市に電話を掛けた。  時間が時間だし、出ないかもしれない、と思ったが、彼はスリーコールで出た。 「…はい」  眠そうな声が電話口から聞こえる。  俺は「宮沢ですけど」と返し、矢継ぎ早に続けた。 「調査進んでるんですか。遂に、俺まであの女の霊を見たんですよ!」  スマホの向こう側の野々市は「え?」と間抜けな声を上げた。その声に、俺は自分の顔が、頭が、段々と熱くなっていくのがわかった。  こっちは、こんなに苦しんでいるのに。  こっちは、こんなに辛い目に遭っているのに。 「待ってください、それはどういう」 「調査してるんじゃなかったのかよ!俺の友達の方が有能だな!あの部屋の前住者に自殺者がいることまで突き止めたんだぞ!」  俺は野々市に対して怒鳴った。こいつらは、一週間と少しの間何をしていたんだろう。途端、流が俺からスマホを奪った。 「お前ら、宮沢を騙して金盗ろうって魂胆だろ。そうはいかないからな。…うるさい。黙ってろ!とにかく、こいつには今後一切連絡を寄越すな!」  流は一気にそう言い切ってスマホを切った。  横を過ぎた店員が迷惑そうにこちらを睨んでいる。矢島は俺と流を怯えたように見つめていた。 「…宮沢、とにかくあそこから出た方がいい」  流はそう言った。  それに対して、俺は、 「時期が来たら」 とだけ返した。
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