壱 林檎の恋(3)

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壱 林檎の恋(3)

 裏山の森の奥に一本だけ生えていた野生の林檎の木。  誰も見ていなくても、春には白い花をつけ秋には赤い実を結んでいた。人の手を知らない林檎の樹高は里のものよりはるかに高く、枝に登って身を隠すのに都合がよかった。  引っ越した最初の夏に、新吾はいじめに遭った。  東京郊外の町から地方の小さな村に移り住んだ。何をしたわけでもなかったが、いつまで経っても友だちができなかった。  生まれ育った町が恋しかった。毎日誰かと遊んだ日々に戻りたかった。けれど、それを母の千賀子ちかこに言う機会はなかなか見つからなかった。  千賀子を気遣ったというより、単純に、物理的にできなかった。  父を亡くし、血のつながりがあるとはいえ、別の家族の世話になって暮らす毎日。伯父の一家や祖父は、一家の大黒柱を失った千賀子と新吾に優しかった。つらく当たられたことは一度もない。  それでも、千賀子と新吾はどこかで一家に気を遣っていた。  千賀子の兄に当たる浅見和弘あさみかずひろは、新吾の祖父である武春たけはるが営んでいた八百屋を継いで、地元に数店舗を構えるスーパーマーケットに育て上げていた。  伯母の房子ふさこも三人のいとこたち――新吾と同い年の里佳子りかこ、一つ下の芳樹よしき、三つ離れた末っ子の大介だいすけ――も、嫌な顔一つせず、千賀子と新吾を迎え入れた。  当時はまだ、伯母の房子もスーパーのレジ打ちを手伝っていて、千賀子は房子と一緒に働くことで浅見家に自分と新吾の居場所を作っていった。  浅見家では、朝晩二回、総勢八人で食卓を囲んでいた。食事中に何か話そうとすると、両親と三人だけだった頃と違い、順番を待ち、タイミングを計って口を開かなければならなかった。ようやく話し始めても、別の誰かの声にかき消されることも多かった。  転校した最初の年、新吾は学校で誰とも話さなかった。家にいる時も日常の会話をするだけで、本当に話したいことをゆっくり話した記憶がない。
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