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第一章 未来屋書房
Book-1. -Lillia-
ずぶぬれの女が立っていた。瞳に光が無く、頬に涙の跡がついたその表情はどこか虚ろに見える。
当たりに街灯はなく、一面真暗な闇にたたずむ女は、どこか不気味なようで、哀愁が漂っていた。
やがて、女の前に1軒の建物が現れる。家、というにはいささかファンタスティックは風貌で、少し光を帯びているその建物は、一般の民家に見られるような生活感が無い。かといって、店なのかといわれれば、客に向け門を開き来訪者を歓迎する、特有の歓迎感も醸し出していない。
女は一瞬ためらうような動きを見せるが、周囲に他に建物が無いのを見ると、決意したように、建物の扉を開いた。
扉の向こうには、柔らかな橙の灯りに照らされた空間が広がっていた。広がる、と形容するには少し狭いような気もするが、外観から予測しうる面積よりははるかに広かった。その部屋には一面の本棚があり、床には本棚に入りきらない分の書物が積まれている。日本語の表紙の本もあれば、女には理解できない異国の言葉の本もあった。
本に囲まれた空間の中央付近には小さなテーブルにイスが二脚。そこにも本がずっしりと積まれていて、この空間の持ち主の気配を感じさせない。
テーブルから見える窓は、外から見えた時よりは少し小さく見えた。もしかしたら、真暗な空間に浮き立つ明りのせいで、大きく見えるような錯覚を起こしていたのかもしれない。
「こんばんは、お嬢さん。それとも、お客様?」
突然響いた男の声に、女はびくりと背を震わせた。部屋の隅にある階段から降りてきた(と思われる)眼鏡をかけた男性の声は、やさしい音色の中に、どこか他人を突き放すような厳しさを感じさせる、不思議な声だった。
「おや、びしょ濡れじゃないですか」
男は、女の様子を見て、どこからかタオルを取り出してきて、それを女に差し出す。
「そんな若いお嬢さんが、そんな恰好でうろつくものではありません」
女が差し出されたタオルで身体を拭いている間に、男はミルクティーを差し出す。ほかほかと湯気を立てるそれを女の手が受け取ると、イスとテーブルに積んであった本を床に移し、そこに腰かけるよう促した。
「自己紹介がまだでしたね」
男はそう言いながら微笑んだ。しかし女は男の微笑みにつられて笑う事はなく、再び沈黙が訪れた。
「僕は曜といいます。此処でミセを開いています」
男――曜は女の沈黙に構わず、眼鏡の奥に笑みをたたえる。
「このミセはちょっと特別でね……できれば、そんな此処に来られた貴女のお名前を、貴女から伺えたら、嬉しいのですが」
曜はそう言いながら、女に微笑みかける。
女は小さく、「リリア、よ」と答えた。
「そう、リリアさん、というのですね、素敵な名前だ。名前は特別なモノです。そんな特別な、素敵な名前を呼べる貴女の恋人がうらやましい」
にこにこと笑みながら言う曜に対し、リリアは曜の「恋人」という単語に反応し、さめざめと泣き始める。
「泣いてばかりでは、僕には何もわかりません。もしよければ、僕にその胸の内をお話し下さいませんでしょうか」
ただひたすらに涙を流し続けるだけのリリアに、曜はやさしく語りかける。
「僕はアナタの、話し相手になりたい」
リリアはその言葉に、嗚咽を繰り返しながら、答えていった。
彼女は結婚を控えていた。長年連れ添った彼との、待ちに待った結婚式だ。
両家の親たちを説得すること、親戚たちへの説明。
耐え難い苦難をともに乗り越え、ようやく手にした彼との結婚だ。
今が一番幸せ
二人は口をそろえてこう言った。
アナタといられるならば、どこへでも。
キミといられるならばどんなことでも。
二人は資金を集めるため、夜も無く昼も無く働いた。
そんな幸せのなかのある日。
彼は彼女の前から消えた。
婚約を反故にしたという意味ではない。結果的には相違ないことではあるが。
彼は、仕事中に巻き込まれた事件により、彼女の傍から離れた。
否、巻き込まれたのではなかった。
彼の所属する組織が、その事件を引き起こし、彼は――
彼女は其れを受け入れなかった。
否、受け入れられなかった。
将来を約束した彼が、世を賑やかすあの組織の人間だったなど。
やっと説得した親や親せきに、どう申し開きができよう。
そして彼女は――
「其れは、お辛かったですね」
心中お察しします、と呟く曜の表情は、眼鏡が遮っていてよくは解らない。
ぐずぐずと顔を拭っていたリリアがふと、尋ねた。
「此処は、何のお店なんですか?」
それを聞いた曜は、再び微笑みを浮かべる。但し、今回の笑みは、先ほどまでの笑みとは本質的に違う何かが伺ってとれる。リリアは其の変化には気づかないようだ。
「此処はね、本屋さん、ですよ」
「本屋、さん?」
「えぇ。ただ、普通の本屋さんとは、ちょっと勝手が違いますがね」
たとえば、と曜は手元にある二冊の書物を取り出した。
「この書物は、それぞれが、『誰かの生きた物語』です。その人が悩んだ分だけ、そして選択した分だけ、物語は分岐し、別の物語になって行く」
書物に見入るリリアは、この空間に入場してからの中で一番、瞳を輝かせて、曜の話しに聞き入っている。
「このミセはね、そんな分岐した物語を、お客様のご依頼に合わせて、ちょちょっと、やる、そんなおミセなんですよ」
リリアは曜の話しに聞き入っている。
ミルクティーの湯気は、とうに上がらなくなっていた。
「さて、リリア様。貴女は、僕の、『お客様』でいらっしゃいますか?」
曜は再び、品の良い微笑みを浮かべながら、リリアに尋ねる。
曜の『お客様』であるという事は、書物に細工をしてもらうという事と同義である。
しかし、リリアは頷いた。
「リリア様、貴女の望みは?」
リリアの腰かけるイスに近づき、跪いて尋ねる曜に、リリアはそっと耳打ちした。
「…………なるほど。それでは、そのように」
少々お時間を頂きます、とテーブルにミルクティーの入ったポットを置くと、曜は店の二階に上がって行った。リリアがポットを傾けると、香の良いお茶がカップに注がれた。
どのくらい時間が経ったのだろう。そういえばこの空間には時計が存在していなかった。
「リリア様、お待たせいたしました」
書物を携えた曜が階段から降りてきた。
「まことに僭越ながら、リリア様には、二つの選択肢を、ご用意させていただきました」
曜は二つの書物をテーブルに置く。
「一つ目の物語はこちら。―――――――――そして、もう一つの物語は………」
リリアが書物を選択するのを、曜は微笑みながら見ていた。
「お世話になりました」
そう言って深々と頭を下げるリリアに、やはり曜は微笑みを崩さないままだった。
「いえいえ。こちらこそ」
そう言いながら、リリアの隣――寄り添う男に目を向ける。
「今度こそ、私たち、幸せになりますから」
そう言いながら、リリアと男はミセから出て行った。手を繋ぎながら歩くその姿は、やがて光の中へと消えていった。
「やはり、選んでしまいますよね、そちらを……」
「それにしてもあの女、ケッサクだったよなぁ、曜!」
ミセの二階に曜が戻ると、品の無い声で黒猫が話しかけてきた。
「あの男との未来を望む対価、ちゃんと教えてやったんだよなぁ?」
「えぇ、もちろんですよ」
「それにしても傑作中のケッサクだったぜ!ウヒヒヒヒヒ」
曜は猫を無視して、床に置き去りにしていた本を拾い上げていく。全てあの女、リリアの物語だ。
「一つしか存在しない『愛しの“彼”との幸福な世界』とやらを本気で望んじまうなんてな!それにかかる対価の重さもわかりゃしないで!」
「説明は、しましたよ」
「何が本当の幸福なのかもわかりゃあしないで、愛しの彼が~なんて、へそで茶が沸くね!!おっかしいったら!」
黒猫の言葉にさして同上も同意もせずに、曜は黙々と部屋を片付けていく。
何が幸福か、何を幸福だと感じるかなんて、その時、その人にしかわからないだろう。
だからこそ、僕は、話し相手になりたいのだ。
1階のドアが開く音がした。ふう、とため息を吐く。
「お客さんだぜ、曜?」
「わかっていますよ。全て、ね」
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