第一章 未来屋書房

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Book-2. -Emiko-        その家の門柱に、一匹の黒猫がいた。黒猫は門柱に続く道に微かな足音を捉えると、にゃあ、と小さく鳴き声を上げた。道を歩いてきた人物を誘うように、黒猫は門の中を進んで行って、やがて姿が見えなくなった。  こんこん、と控えめなノックのような音が聞こえる。といっても、鳴らしているのは他でもない女自身だ。    ただ普通に、いつも通りの道を散歩していたはずなのだが、気が付いたら見慣れない場所に出ていたのだ。昔から、そういったことは多い、いわゆる方向音痴であると言う事は自覚していたし、それを自覚した上での散歩趣味であり、同時に迷子趣味でもある。    しかし、このような不思議な場所に出たのは初めてだ。外観こそキレイでファンタジーの世界のようだが、人間が生活している様子が感じられない、そんな空間だ。  人の気配を全く感じないまま、不思議な通りを歩いていく。歓迎されているような、そうでも無いような、何ともいえない感覚に緊張を覚えながらも、女はどんどん奥の方へ進む。    ふと、どこかから、猫の鳴き声が聞こえたような気がした。しかし、相変わらず自分以外の気配は感じないままだ。不気味だと思いながらも立ち止まってあたりを見回し、何もいないことを確認してからまた進もうとすると、今度こそ、確実に「にゃあ」と鳴く声がした。  明らかに自分に向けられたその鳴き声に、若干泣きたくなるような恐怖感を覚えながら声の聞こえた方を良く観察すると、なんてことはない普通の(すくなくともそう見える)黒猫がいる。  黒猫はもう一度、女に向かって鳴き声を上げると、付いて来いと言わんばかりに歩き出す。慌てて黒猫の後を追うと、一定の距離を保った黒猫が立ち止まり、自分を確認してからまた歩き出す、という具合だ。    黒猫に誘導されてたどり着いたのは、一軒の家だった。通りに在る他の家のように、ファンタスティックな風貌のその家も、やはり一見、人の気配は無いように見える。    黒猫はその家の門をくぐって敷地の中に入って行く。    慌てて女も黒猫の後を追うように門をくぐり、玄関まで敷かれた石畳を渡っていく。チャイムを鳴らしたが返事はなく、ドアノブに手をかけると、ドアが独りでに開いた。        家の中も、外見を裏切らない洋風な居間になっていて、その床は一面の本の海のようだ。   「誰かいませんかー」    この不思議な通りに入って初めて、女はまともに声を出した。さすがに所有者の許可も無く一軒家の中に侵入したので、妙に居心地が悪い気がした。   「……誰か――」 「いらっしゃいませ」    誰かいませんか、とは言ったものの、自分以外に本当に誰かがいるとは思っていなかった女は、部屋の隅にある階段の上から聞こえた男の声に、ありていに言えばビビッてしまった。   「……スミマセン、お待たせしてしまいました、って……アレ?」    トントンと足音を響かせながら本の海に降りてきた眼鏡の男から身を隠すように、テーブルの影にしゃがみ込む女に、男は笑いながら話しかける。   「大丈夫ですよ、別に取って食べよう、とか思ってませんから」    ね?と微笑む男の顔を見て、女はこの異様な空間に入り込んでからようやく安堵の表情を浮かべた。   「あの、勝手に入っちゃってすみませんでした」 「いえ、お気になさらずに」    そう答えながら男に勧められた椅子に腰かけ、女はきょろきょろとあたりを見回している。   「どうかしましたか?」    ポットからトポトポと心地良い音と香りをさせながらジャスミンティーを淹れる男は、そんな女の様子を見て尋ねる。   「あの、にゃんこは、飼っていないんですか?」 「猫ですか?……そんな可愛らしいモノに心当たりはありませんが」 「そうですか……」    男は女にお茶を出すと、自分もその正面に腰かけた。   「私、にゃんこに案内されて、ココに来たんです」 「……はぁ」 「黒いにゃんこで……でも、もしかしたら見間違いかもですよね」    男は眼鏡の位置を直しながら、女の話しに耳を傾ける。   「あ、そうだ。勝手にお家にお邪魔して、自己紹介もせずに、失礼でしたよね。私、エミコっていいます」 「……店主の曜です。えっと、貴女は……」 「それにしても、このお家に来るまで、なんだか不思議でした! ファンタジーとか絵本みたいな通りを通ってきたんですけど、このあたりってあまり人住んでないんですか?」    エミコ、と名乗る女のペースで話しは進んでいく。眼鏡の男――曜は、困ったように微笑みながら彼女の話しに相槌を打つしかなかった。        ひたすらに話し続けるエミコの話しに、曜もひたすら相槌を打ち続ける。部屋に漂っていたジャスミンティーの香りは薄くなり、そろそろ淹れ直しても良いくらいの頃合いなのだが、曜はエミコの怒涛ともいえる勢いの話しに、つい席を外すことをためらわれてしまうのだ。    普段の自分の散歩のコースから、何をして生計を立てているのか、彼氏と別れたばかりで現在絶賛募集中だとか、家族に対する愚痴だとか、さまざまな感情論を垂れ流すエミコに、曜は既に辟易としてしまっていた。彼女が『客』だろうがそうでなかろうが、早急にお帰り頂きたい所存、と言ったところである。    しかし、この『店』に入ってきたという事は、彼女にもそれなりに叶えたいモノがあるはずなのだ。それを曜は何としても聞き出さなければならない。    曜は、茶を淹れ直すと言う名目で無理やりにでも席を立ち、場を仕切り直す作戦に出ることにした。        空のポットとカップを持ち、二階へ上がると、今回の諸悪の根源であろう黒猫が、曜のデスクに居座っていた。   「何なんですか、アレは」    簡易的な作りのキッチンに入り、ヤカンに水を淹れながら曜は問う。若干だが苛立ちが隠せていないのは、重々承知の上だ。もっともこの黒猫(害獣)にそのような気遣いや遠慮は必要性すらも感じていない。    黒猫は黙秘を貫く様子で、のんきに毛繕いを始めている。こうしているとまるで普通の猫だ。   「厄介なモノ引き入れないで下さいよ。僕まで皆さんに批難されてしまいます」    新しくアッサムの茶葉を淹れたポットに熱湯を注ぎこみ、新しいカップと一緒にトレイに載せる。黒猫の返事は待たずに、曜はエミコの待つ階下へと戻って行った。       「あ、おかえりなさーい」    部屋の中を見回しながら暇を潰していると、曜がトレイを持って戻ってきた。さっきと違う香りがするので、新しく淹れ直したのだろう。   「お待たせいたしました」    曜はそう言いながら笑みを浮かべる。カップに紅茶を注ぐとエミコの前に置く。  エミコはすぐにカップに手を伸ばした。もともと猫舌ではないので、どんなに熱いものでもすぐに飲み干せるのだ。しかし、曜が淹れた今回の紅茶は、エミコの舌にすら熱さを感じさせ、少しビリリとした感触が伝わった。   「さて、エミコさん」    自分の分の紅茶に口を付ける前に、曜は笑顔で話しかけてきた。思えばこの部屋に来てからは自分の方が喋りっ放しで、曜の話しはほとんど聞けていない。   「な、何かしら」    まだ紅茶による火傷で舌がヒリヒリして、上手く話せない。   「此処はね、本屋さんなんです」 「え、お店だったんですか!? 確かに、本がいっぱいありますもんね」 「でも、ふつうの本屋さんとは、少し勝手が違いますが」    エミコは訳が分からないとでも言うように、首を傾げた。   「此処に在る無数の書物は、それぞれが『誰かの生きた物語』です。その人が悩んだ分だけ、そして選択した分だけ、物語は分岐し、別の物語になって行く」    曜は床から一冊の本を取り上げると、ぱらぱらとめくる。  そして、彼の口元が、ほんの少しだけ上がったのを見た時、エミコは不意に背筋に何かが走ったような感覚を覚えた。   「……それは、私の本も、あるってコト、なの?」    エミコの表情は『店』に入ってきたときよりも固くなり、言葉を選ぶようにそう尋ねた。   「えぇ、もちろん。……此処はね、分岐した物語(可能性)を、お客様のご依頼に合わせて、ちょちょっと、やる、そんなおミセなんですよ」    エミコは、まるでこの世のモノではないモノでもみたような顔つきになって、ガタリと席を立つ。音を立てて倒れた椅子に構う余裕もなかった。   「さて、エミコ様。貴女は、僕の、『お客様』でいらっしゃいますか?」    曜は再び、品の良い微笑みを浮かべながら、エミコに尋ねる。  エミコは曜の顔と彼の手に載せられた本を交互に見る。何の変哲もないように見えた部屋中の本が、なぜか無償に怖いものに感じる。   「ホントに、どんなことでも変えられるの…?」 「えぇ、もちろん。この取引に嘘偽りはありません」    曜は品の良い笑みのまま答える。   「未来のことも、変えられる?」 「まことに申し訳ございませんが、このミセで変更できるのは、あくまでも『お客様の過去に在った分岐』のみとなっております。しかし、その分岐を変えることで、未来が変わる、という事も頻繁にあり、これらの書物はそういった分岐のパラドックスを纏めたモノ、にあたります」 「つまり、変えたい未来の形を断定すれば、そこに行きつくまでの選択肢みたいなものを変えていくことが出来るってわけね?」 「ご理解が速くて助かります」    曜は手に取っていた本をもとの場所に戻す。その動作だけで、エミコの肩はビクリと震えてしまった。   「もう一度お尋ね申し上げます、エミコ様。貴女は、僕の、『お客様』でいらっしゃいますか?」    エミコは一瞬、眼を泳がせたが、唇を引き結んで、縦に首を振った。           「いやぁ、今回もケッサクケッサク!!」    そう言って高笑いする黒猫に、曜は反射的に脚を繰り出した。当たったかのように見えたが、黒猫は寸でのところで躱し、くるりと着地する。   「だから、厄介なモン引き入れるなと言ってるでしょうに!」 「だってその方がオモシロイだろう?」    猫のくせに、腹を抱えて笑うという、どうにも人間臭いしぐさを見せる黒猫に、曜は思いっきり顔をしかめた。こんな表情、『お客様』の前では絶対に見せないだろう事だけは確信できる。   「オモシロイは正義!ってな!」    まだ笑い続ける黒猫をよそに、曜は今回の依頼に使った書物を片づけていく。不意に、そのうちの一つが目に入り、再び顔をしかめて本棚に投げ込むように入れる。   「『未来に在りうるかもしれない幸せな自分』への可能性のためだけに、まっさか『産まれる瞬間からの分岐』全てを変更するヤツがいるなんてよ!」    それが彼女の幸せの在り方ならば別に構わないじゃないか、等とは曜は口には出さない。例え言ったとしても、黒猫に笑い飛ばされて、煮え切らない思いを重ねるだけだ。       「ほーら、またお客(憐れな道化師)サマだぜ?」 「わかっていますってば。全て、ね」
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