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園田と傘の話をする。
園田は、なんの変哲もない転勤の多いサラリーマンで、傘は一見はなんの変哲もない傘だった。
黒い傘だ。
始まりは、平成の初めの頃の話になる。
平成の初めというと、大して昔ではないような気もするが、オフィスの環境に関しては、今とはかなり様相が違う。
オフィスにはまだパソコンがそれほどなく、コピーはあったが、プリンターはフロアに一台くらいしかなく、印刷できるものには制限があったりした。帳簿も手書きであり、電卓やそろばんで計算してつけていた頃である。
園田は当時も今も同じ会社に務めるサラリーマンであって、当時の園田はまだ卒業して入社したばかりで大変若かった。
同僚というか先輩に中野という男がいた。
中野は今ではあんまり見ない黒い腕カバーなどをつけている地味目な男性で、園田よりもいくつか年上だった。園田は、あまり中野とはしゃべらなかった。当時の園田は、大学卒業したての浮ついた男で、おとなしい中野とは相性がよくなかったのだ。
ある雨の日、その中野が窓の外をじっと見ているのに気がついた園田は声をかけた。
「中野さん、何見てるっすか?」
今でもはっきりと思い出せる。
中野が振り向いた。その顔は異様だった。
目は大きく見開かれ、まるで、何か苦いものをつっこまれたと言ったふうに唇が開いていた。
要するに「恐ろしいものを見た」という顔だった。
実際そうだったのだが。
「中野さん?」
園田の声がけに中野ははっとして正気を取り戻すような顔をした。
「あぁ、園田くん」
「あ、雨降ってるんすね」
夕方になっていたのでわかりにくかったのだが、外は雨が降っていたのだ。
道には何もなかった。
何か雨が降ると困ることがあったからあんな顔になったのだろうか。
園田はそう思った。
中野のその顔は、当時の園田にとってはなかなか強烈で面白いものだった。
だから、多分その数日後、園田は、飲みにいった先で、同僚にその話をした。
「本当にすっげ変な顔だったっすよ、びっくりしました。なんか雨降ったら困るもんでもあるんですかねっ」
同僚は多分笑いながら聞いていて、園田はその後、中野のことは忘れていた。
しかし、このことを園田は、のちに何度か苦々しく思い出すことになる。
中野が転勤する時のことだった。
園田の職場は全国に拠点を持つ組織で、その職場で働く人間は、腰掛けの事務職の女性(当時はそんな女性がたくさんいたのである)など以外は全国の拠点を移動する。
送別会を行った後、中野の最後の出勤の日だった。
中野が、事務所の玄関の傘立ての前に立っていた。
そこには、一本だけ黒い傘が刺さっていた。
なんの変哲もない。黒い傘だ。
「あ、中野さん、福井でも頑張ってくださいね」
園田が言った時だ。
中野は、傘立てに一本残っていた黒い傘を持ち上げた。
そして、笑顔で、園田に差し出した。
「べとべとさん、よろしゅうに」
ぽんと、園田の手に傘が押し当てされた。
「えっ」
園田は傘を掴む、
その瞬間。
うまく説明できないが、園田は、何かを見た。
それはあきらかに現実の光景ではなかった。
雨の中を黒い稲妻のように、不快な笑い声が行き交う。
耳の奥をひっかくように、何かが反響した。
気がつくと、園田はびっしょりと汗を書いたまま、そこに立っていた。
中野の姿は消えていた。
中野が渡していったものがなんなのかがわかったのは、次の雨の日だった。
わかった、というには語弊があるかもしれない、それがなんなのかは結局わからない。だがとにかく何が起こるかは認識した。
まだ昼間だったと思う、急に雨が降り出し、窓に近い位置に机があった園田は雨が振り込まないよう、窓を閉めるように言われた。
園田が、帳簿に書き入れていた手を止め、窓を閉めようとそこに立った時、それが目に入った。
黒い傘。
そしてその下に何かがいた。
黒い靄のような、不定形で、湿っている何か。
なんなのかわからない。
だが
何か『嫌』なものだった。
恐怖そのものが見ている目から広がるようだった。目を離したい。
しかし、それをどうしても確認しなければという気持ちに狩られる
「園田!!早く窓閉めろ!!」
後ろから大きな声がして、園田は、はっとした。そして、窓のさんを握ると、力の限り、引いた。
枠にぶち当たった窓は大きな音を立てる。
「なんだ?お前」
後ろから笑い声が聞こえる。
園田は振り返ることができなかった。
喉が渇き、全身から冷や汗が出ている。
自分がどんな顔をしているかわかっていた。
園田は、顔を一旦叩くと、無理やりに後ろを向き、
「ト、トイレ行きます」
聞かれてもいないのに、わざわざそう言って廊下に出た。
真っ先に傘立てを確認する。今日は雨が予報されていたので、傘は何本か立っていたが、園田が、中野から手渡された黒い傘はなかった。
他の傘も黒かったが、なぜかあの傘ではないのがはっきりとわかった。
そうして、その後も職場で雨になると同じことが起こった。
傘立てから傘がなくなり、職場の前に、黒い傘をさした何かが立つ。
2階の窓からも見ることが多かったが、雨が降っている時にちょうど外に出る用事があることもあった。
目の前で見ても、傘の下に何があるのかはわからなかった。
なんとも言えず、不快で心をざわつかせる恐怖のような感情はそのたびに抱いた。
最初、園田は楽観的に考えていた。雨が降るたびに嫌な気分になるが、園田が転勤する時に、中野と同じに誰かに「べとべとさんよろしゅうに」と言って受け取ってもらえばいいのだ。
そんな風に園田は思い、転勤する日を楽しみにしていた。
しかし、園田の元に先に訪れたのは転勤の辞令ではなかった。
中野からの手紙だったのである。
ある日出勤すると、机の上に白い手紙がぽつんと置いてあった。
封筒の表には、園田の名前が書いてあり、裏には、中野の名前があった。
封はしてあった。
事務の女性が、お茶を淹れて園田のところに置きにきて(当時はそういう女子社員がいたのだ)手紙を見て言った。
「それ、福井支社の中野さんの机の上にあったって、社内便に紛れて送られてきたらしいです」
「…………へえ」
「中野さんって園田さんと仲よかったんですか?」
この女子社員は、中野の転勤後に勤めだしたのだ。
「いや」
園田は、早速手紙を開く。
内容は予想の通りだった。
園田様、本日、福井では雨が降りました。私はあれに会いませんでしたので、おそらく園田様は、もうあれに遭遇していると思います。私はあれのことをあまりはっきりとかきたくありませんので、あれと書きます。園田様はどう思うかわかりませんが。
私はあれに遭遇したのは、前の職場で5年ほど前になります。最初にあれを持っていたのは、山本という女性でした。
山本さんと私は、別段仲がよかったわけでもなんでもありません、私は、彼女が外を見ていたことすら気がついていませんでした。
彼女は、派手な女性で、上司に気に入られており、一部の社員に人気がありましたが、私は、彼女があまり好きではありませんでした。
あまり態度に出したつもりはありませんが、その私の気持ちを彼女は察していたのかもしれません。彼女は私に少なくとも少しは悪意がありました。
彼女は寿退社することになりました。そして、彼女が最後の出勤日、私は彼女に呼び出されました。そして傘を渡されたのです。
「べとべとさん、よろしゅうに」
その後のことは、園田さんも体験されたと思います。
開いた傘の下に何があるかを思うだけで怖くなりますが、見たくなります。しかし決してそれが何かはわからないのです。
その後、転勤になる時に、私は山本さんと同じことをするか迷いました。
しかし、結局しませんでした。私は山本さんを軽蔑していたので、同じことをする人間になりたくないと思ったのだと思います。
それに、彼女と私は事情が違います。
彼女は前の事務所を去りましたが、住居は近くでした。私の場合は遠くへ転勤します。遠く離れれば、あの傘は元の場所にあるままなのではという期待もありました。
しかし、あれはついて来ました。
あなたの他にも、傘を押し付けたいと思った人間は何人かいます。
しかし、私は山本さんが私に大して思うほどあなたに大して悪意を持っていたわけではありません。それはなんとなく言っておいた方がいいのではと思いました。
あの時、偶然あなたが廊下に出てきて、他に誰もいなかった。
それだけです。
直前まで、べとべとさんと言うとは思っていませんでした。が、言ってしまいました。そして私の前から傘は消えた。
それならば、山本さんのことを園田さんは知る必要があるのではとこの手紙を書きました。
あれがいなくて、気分がよくなったのか悪くなったのかはよくわかりません。
手紙を最後まで読んだ園田は手紙の最後の日付が、中野が転勤した直後のものだと気がついた。
この手紙は5年前に書かれたものの投函されなかったものなのだ。
ではなぜ園田の机に届いたのか?
その理由はすぐわかった。
出勤してきた所長が、神妙な顔で言った。
「福井支部の中野さんが、なくなりました」
数日前に、事務所で徹夜で仕事をし、朝、廊下で亡くなっているのが見つかったということだった。
心不全と診断された。特にどこか悪かったとか、仕事をたくさん抱えていたというわけではないらしい。
中野の机にあったこの手紙が、園田に届いたのは偶然なのか?
中野の以前いた事務所は知っているので、その事務所の人間が出張で訪れた時、園田はそれとなく聞いて見た。
山本という女性を知っているか?
わからなかった。当たり前だ。腰掛けの女子社員で苗字しかわからない、しかもありふれたものな上、現在はその苗字すら変わっているだろう。
そうこうしているうちに園田にも転勤の辞令がおりた。
最後の日、園田は、傘立ての前で所長に出会った。
二人きりだったが、何も言わなかった。
園田は福岡に移った。
初めて出勤する事務所の傘立てには、黒い傘が一本だけ、入っていた。
そして、雨が降ると事務所の前には黒い傘が開いた。
園田はその後2回転勤したが、二度とも同じことが起こった。
雨の日の園田の表情が異様なことを揶揄するものは数人いたが、園田は、傘を押し付けるふんぎりがつかなかった。
中野の怯えた表情を嘲笑った自分のことをどうしても思い出したしまうのだ。
(あれから30年か………?)
園田は、黒い傘がぽつんとたっている傘立ての前に立っていた。
事務所の中では、パソコンについているLANケーブルの配線を部下たちが外している。
園田は感慨深くその光景を見る。
園田が30年務め、各拠点を移る間に、事務所の作業は手書きからパソコンになり、山本のような腰掛けの女子社員なども存在しなくなり、事務所にいる女性はほとんど派遣社員になっていた。
(オフィスの様相は変わっても傘と傘立ては変わらないな)
園田は思った。
(傘の形は平安時代から変わらないようだが、傘立ても変わらないものだ)
そして、傘立てに忘れられたの傘があるのも。
何度か転勤をした中には、高階層にある事務所もあったが、どんなに下にあっても、なぜか黒い傘の存在はしっかり目に入って来た。そして心がざわつく。
派遣社員の女性たちがしゃべっているのが聞こえて来る。
「園田所長、ここの所長やめたあとには、家庭に入るんですってね」
「家庭に入る?」
「介護だって、親御さんの、お父さんかお母さんか忘れちゃったけど」
「ああ、所長、奥さんいないんだよね」
「1回も結婚してないんだよね。珍しいよね、あの年の人って結構なんで結婚できたのって言う人でも結婚してるのに」
「まぁ、奥さんいても介護してもらえるかどうかなんてわかんないしね、えらいよね、所長」
「だよねぇ」
「しかし、事務所閉鎖かぁ、不景気だよねぇ」
「まぁあたしら派遣だからいいけどね、次見つかったし」
そうなのだ。
園田が、介護のための早期退職を申請した結果、拠点そのものが閉鎖されることになった。
園田には妻はいない、機会がなかったわけではないが、結局うまくいかなかったのだ。
そういえば、中野にも妻はいなかった。
山本は寿退職だ。
………………。
傘は本当に何もしていないのだろうか?この事務所が閉鎖されたら、園田の家に来るのだろうか?それとも事務所以外には来ないのだろうか?
今日は晴れている。傘立てには、一つだけぽつんと傘が残っていた。
園田はなんとなく、外を見て、少しぎょっとした。
いつも雨が降ると黒い傘が開いている場所、ちょうどそこに人が立っていたからだ。
園田が目を凝らすと、その人影はどんどんと近づいて来た。
近づいてくると、傘の影とは似ても似つかないものだった。作業着を来た若い男性で服には西の里清掃とある。
事務所の荷物の引き取りを依頼した清掃業の業者らしい。
まだ若い男性だった。
清掃員は愛想の良いニコニコとした顔で言った。
「あ、その傘引き取りますね」
言われて、園田は、心臓が強く打つのを感じた。
傘を手に取る。
目の前の清掃員に差し出した。
「べっ…………」
そこで清掃員が、傘をぐっと握ったので、園田は次の言葉が告げられなくなった。
「……………」
居心地の悪い沈黙がしばし起こる。その間じっと園田を見たあと、清掃員は言った。
「いいんですよ、べとべとさんって言ってもらって、僕は大丈夫なんで」
園田は驚いて、清掃員を見つめる。整った顔の中にある瞳は暖かく園田を見返した。「あ、いやっこれはっ」
「捨てたくないんですか?」
「いやっ」
「なら大丈夫ですよ。僕はべとべとさんって渡されても捨てられるんで、でもまぁ言われなくても捨てられるんですけどね」
清掃員は、傘を園田からするりと抜いて両手で抱えた。
瞬間、園田は、傘から一瞬もやのようなものが出て、それが清掃員の手に収まるのを見た。
(ああ、本当に彼は大丈夫なのだ)
園田は理解した。
「じゃぁ捨てますね」
清掃員は園田に後ろを向けて去っていく、その背中に、園田は、我知らず声を発していた。
「中野……さん……は?」
清掃員は振り向いて、園田を見る。改めて見ると、本当に綺麗な顔をした若い男だった。今風というよりは浮世離れした透明感がある。
「……わ、私が結婚できなかったこと……や、母の病気はその………?」
清掃員は、園田を見通すようにじっと見たあと、傘に目をやった。しばらく指をあごにやって何かを考えるような顔をしたあと、言った。
「…………山本さんは………古くて………さすがに……わかりませんね」
園田ははっと眉間を開く。
「でも、多少関わっても何もない人は何もないんですよ。こーいうの。気の持ちようなんですよね」
清掃員は、園田を見て、笑う。
「でも、あなたはいい人ですね、誰にも押し付けなかった」
園田は首を振った。
「………いいえ、それは違います」
押し付けがましい同僚や、やる気のない派遣社員に、なんどか傘を押し付けようと思ったことはある。
「私に押し付けても………中野さんは死んだ…………怖かっただけです」
「…………中野さんが亡くなったのは5年後でしょう、本当にこの傘に関係あるのかどうかはわからない。それに今だってあなたは結局私に渡さなかった。それがあなたのとっさの行動だ。あなたはいい人だ」
「そう………でしょうか」
戸惑う園田に、清掃員は微笑みかけた。
「きっといいことがありますよ」
そう言って、清掃員は、園田に背を向け、去って言った。
園田は、その背中に小さくなった黒いもやのようなものがついているのを見た。それは、園田の方を名残惜しそうに見て、清掃員についていった。
園田は、改めて傘立てを見た。傘立てには何も入っていない。晴れた日には初めて見る光景。
園田は、空を見上げる。何年かぶりに見上げたような青空は、光に溢れすぎて、少し寂しかった。
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