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「何、明里、お前ヤクルトファンなの?」
東京から来ていた男友だちが面白がった。焼尻島のサフォークラムを食べさせる店に付き合ったときだった。
「正しくはつば九郎ファン。野球、わかんないから。スワローズファンなんて、本当に野球がわかっているファンの人たちに失礼で、とてもじゃないけど名乗れない。ファンクラブ会員だけど」
友だちは面白そうに、
「あの畜ペンな。畜生ペンギン。しっかしガチだな、お前も。ファンクラブって」
と笑った。
「神宮球場」
「そう。生で動いてるつば九郎先生に会いたいんだ」
友だちはラムをしみじみ噛み締め、ビールを飲み干し、店員におかわりを告げた。軽やかに香ばしく、ちょうどよく焦げ目のついた脂身。ミルクの味わいの赤身。歯ごたえある柔らかさに、肉汁が噛むごとに溢れてくる。粒の立った塩と、肉そのものの潮の香り。プレサレ。
「もう何年も、神宮、行ってねえな」
「野球、観るんだ」
「俺、筋金入り。カープファン。幼稚園の頃から広島球場通って、じいちゃんにスコアの付け方、教えてもらった。神宮なら3塁側に座る」
「へー」
「神宮で飲むビールはうまいんだよ。街中にあって、オープンエアで、まあ野球が生で観られるビアガーデンだよな。西武ドームや札幌ドームみたいにわざわざ出かける仰々しさがなく、ちょっとそこまでって気軽さがいい」
友だちが、大天使ミカエルに見えてきた。
「付き合うよ、神宮の1塁側。あそこはどっちがホームで、どっちがビジターかって境界がいまいちわからないくらいにカオス」
ぼんのくぼにジョイントされたケーブルが、神宮球場と、つば九郎先生に繋がった気がした。
「試合終わったら、麻布十番のものすごいジンギスカン屋に付き合え。嫁も子どもも羊がダメなんだ。あの味をシェアできるのは、残念ながらお前しかいない」
棚からぼたもち、というのはこういうことなのだ、と、ものすごい勢いでうなずきながら、感じ入った。
外苑前のあたりは東京に行ったときに、ふらふらと歩くことがあった。外苑の神宮並木や、絵画館のあたりの風景もよく覚えている。でも、そのそばに、まさか神宮球場があって、つば九郎先生がいるなんて、まったく私の人生に繋がらなかった。
9月の東京は私の札幌体質にはかなり厳しい気候のはずだったが、その日は湿気が少なく、気持ちのいい(とはいえかなり暑い)晴天だった。外苑前駅の改札を出たところで、友だちと待ち合わせた。それは私の知っている銀座線ではなく、夢の国に行く特別列車の駅のようだった。天気予報の降水確率は10%。まず安心して観られるコンディションだった。ビールも進みそう。カープの赤いユニフォームを着た人たちの中に、黄緑やストライプ、ネイビーのユニフォームを着た人たちが混ざっていた。ホームゲームなのに。
ゆるく続く坂道を上り、スワローズのオフィシャルショップに行く。キラキラとオーロラみたいに光る応援傘とカンフーバットを買った。ゆるゆると歩く集団のペースに合わせて歩く。木陰から、いよいよスモークピンクのスタジアムが見えた。人々のけだるい高揚感。縁日のような屋台が誘う。友だちは、すっかり子どもを引率する先生かお父さんだ。伊藤忠のビルが、ここが郊外ではなく、外苑前なのだと伝えてくる。巨大な白い照明塔。つば九郎グッズを身に着けた人たちが行き交う。
「つば九郎は?」
「今日はステージイベントがないみたいだから」
慣れた人なら、試合開始を狙って来場するのだろうか。でも今回は開場時間に近い、早めの時間に来てみた。ブログ等によれば、つば九郎先生は練習時間にグラウンドを徘徊しているはずだ。
「つば九郎焼きだってよ。いらないの?」
少し後ろ髪を引かれたが、買わないでおいた。
「じゃ、ゲートに行くか」
新橋のガード下みたいな時空の歪みがある建物の中に入り、一瞬、本当にスタジアムなのか、という不安にかられる。トイレも何だか真夜中の歌舞伎町みたいな感じがした。それでもここには、つば九郎先生と、その仲間たちがいるのだ。私は意を決して、薄暗い階段を上り始めた。
階段を上りきった光の先に大きく広がったのは、切り取られた夕方近くの青空だった。初めて来た場所なのに、懐かしい場所。天国ということばが、ふさわしい場所。
粒の小さな人影がそわそわと試合開始を待ち、思い思いの時間を過ごしていた。人々のざわめき、スコアボードビジョンのコマーシャル。ビールの売り子さんたちの声。子どもたちの嬌声。応援練習。気温は厳しく暑いはずなのに、吹くのは澄んだそよ風だった。
何かに赦されたような思いで、気づくと涙の玉が目からコロコロと生まれて落ちた。
「泣くか!」
友だちはドン引きしつつも笑いながら、席を探してくれた。
刻一刻と空は夕方に向かい、黄みを帯びた青空に、飛行機雲が生まれては消えた。飛行機雲が、生まれて死にゆくのを眺め、深呼吸を続けた。どんどん身体が開いていく。友だちが売り子さんからビールを買ってくれ、1杯目の乾杯をした。フェンス越しに荷物を持った選手たちが横切っていくのが見えた。
「お、いるぞ、畜ペン」
本物の、モフモフとしたつば九郎先生が、フェンスの向こうにいた。大げさではなく、本当に生きている、人のような、つば九郎という生き物だった。さもスタッフのような顔をして。
グラウンドからは選手の姿が消え、チアガールが配置につき、観客席の高揚感が一瞬高まった。スコアボードのビジョンにスタジアムDJとつば九郎先生が映し出された。今日は花火が上がる日だ。チャンステーマは「夏祭り」多めだと嬉しい。花火にピッタリだ。なつやすみのすべての幸福な記号の予感を詰め込んで、そろそろ試合が始まる。
今日は何回、東京音頭を歌いながら、傘を振り回せるのだろう。
外野席から太鼓とラッパの音がする。選手たちが紹介され、つば九郎先生にハイタッチし、ポジション目指して駆けていく。
私はビールの売り子に合図をし、2杯めのビールを注文した。
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