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1話

「うわ、松丘いる。キッショ」  雨の音の間にふいにそんな声が耳に飛び込んできて、亜沙子はびくっと肩を揺らした。  一瞬、振り向いてしまった。そしてすぐに後悔して、前に向き直った。  目に焼き付いた声の主は、案の定、松下たちだった。染められた明るい髪、濃い化粧、膝上ぎりぎりまで短くしたスカート。ボタンを二つ外した襟元にやけに大きな赤いリボン。装飾だらけのカバン。  亜沙子の耳元でどくどくとうるさい音が鳴りはじめ、胸の内側を強く叩かれているように鼓動が乱れはじめる。 「目合ったし。ってか何あの傘? キショくね?」  松下とその仲間の悪意に満ちた笑い声が雨音を貫いて聞こえ、亜沙子は腹を殴られたような、鈍く重い吐き気を感じた。  強く傘を握りしめ、顔を隠すようにして帰路を急いだ。 (最悪。最低)    家までの道を急ぐ間、亜沙子は何度もそう怒りの声をあげた。  頭の中ではそんなふうに勇敢に言い返しているのに、現実では何一つ言葉にしたことはない。  松下――松下瑠璃唖(るりあ)たちが、なぜ自分をここまで嫌い、悪意を向けてくるのか亜沙子はよくわからなかった。そもそもクラスも違うのだ。  ただ、きっかけは本当に些細なことだった。  松丘亜沙子と松下瑠理唖。  名字が少し似ていた。それで、合同授業のときに何度か間違えられたのが、松下瑠理唖には気にくわなかったらしかった。瑠璃唖のような中学生からすれば、亜沙子は一緒にされるのも屈辱名、地味で根暗な人種ということらしかった。  はじめは顔をしかめて睨みつけられるぐらいだったのが、いつしかこれ見よがしに悪口を言われるようになった。それが取り巻きに伝染して、集団でくすくす笑われるようになるまで時間もかからなかった。  最悪、と亜沙子はもう一度心の中で吐き捨てた。そして、重いものをようやく持ち上げるように、目を上げた。  アスタリスク記号みたいな放射状に広がった傘の骨と、それに張られた撥水生地を見る。  雨に濡れて薄青の生地が色濃くなり、プリントされた白の図柄がはっきりと浮かび上がっていた。  ちょうど亜沙子と同じように――雨の中を、傘をさして軽快に歩く少女の絵だった。この絵で、雨はきらきらして降る宝石のように見える。女の子は、そんな不思議な世界を楽しげに散策しているかのようだ。  ――スマホでネットサーフィンをしているうちに見つけた傘だった。一目惚れしてしまい、どうしてもほしくて、母にねだって通販で買ってもらったのだ。  発送から到着まで指折り数えて待って、到着したときは大喜びして。すぐ次の日が雨の日でないのが残念なくらいで、今日は、ようやく外へ持って行ける初めての日だった。  お気に入りの傘。――なのに。 『ってか何あの傘? キショくね?』  一番見られたくない人物に見られて、一番言われたくない言葉をぶつけられて、浮かれた気分は一気に萎れた。  湿って重くなった体を引きずり、亜沙子は残りの道を足早に進んだ。  学習机とベッドばかりがある自分の部屋で、亜沙子はベッドに寝転がる。  雨の音が聞こえてくる。日曜の夜九時、明日からまた学校だと思うと憂鬱だった。天気予報によると、明日も雨らしい。  松下瑠理唖たちと遭遇して以来、使うのはもっぱら無味乾燥なビニール傘に戻っていた。  一目惚れした傘は、宝石のような雨も軽快な少女もたたまれて巻かれ、傘立ての中で乾くばかりになっている。  ただでさえ松下たちに目をつけられているから、これ以上悪口の材料を増やしたくなかった。またあんなことを言われるのはいやだ。  スマホを持ったまま、ぱたんと体の横に手を落とす。 (……誰も何も、助けてくれないし)  担任の先生は気づいてくれない。助けてくれない。  親に言う、ということもなんとなくできなかった。相談すればおそらく親は学校に電話をかけてくれるだろう。そこから先――面談なんてことになるかもしれない。  そうすればどうなるか。  面談なんてしても松下たちが改心するなんて思えない。それどころかチクった(、、、、)と思われてますます恨まれたりして、キショい奴(、、、、、)だとか言われるだけだろう。 (……言っても、仕方ない)  無視して、やり過ごす。自分は不真面目な松下たちとは違う。クールで、大人なのだ。言い返すことはバカのやることだ。  亜沙子はいつものように、自分にそう言い聞かせた。  外の雨の音が遠くに聞こえる。 (傘……、使いたかったな――)  薄闇の中、白い少女のシルエットがぼんやり浮かぶ。  間もなくうとうとと眠気がやってきて、亜沙子は意識を手放した。 『ねーえ。なんであたし(、、、)を連れていかないわけ?』  ふいに不機嫌そうな声が響いて、亜沙子ははっとした。  そこは雨の中だった。亜沙子は傘もささずに立っている。どこかわからない外の景色だ。なのに濡れていない。ぼんやり声の方向を見ると、傘をさした少女がいた。  あっ、と亜沙子は短く声をあげた。  開いた傘をくるくると回しながら、一人の少女が亜沙子を見ている。目鼻立ちのはっきりした、だが国籍のよくわからない系統の美少女だった。かなり色白で、ぼんやりと薄青に染まった世界の中で、少女だけが白く浮き上がって見える。  強い既視感が亜沙子を襲った。そしてすぐに思い至る。 (傘の、女の子!)  思わず驚きの声をあげた。 『あたしを連れていきなさいよ』  少女は不服そうな顔で繰り返した。  その言葉の意味が、ようやく亜沙子の頭に染みてくる。 『えっ、連れて行くって……?』 『あたしは傘! 雨の日こそ出番でしょ! あんなに嬉しそうに開封してくれたのに、持っていってくれたの初日だけじゃない。どうして傘立てに押し込めておくの?』  まるきり人間の少女の姿をしながら、自分は傘だと少女は訴える。  奇妙な状況だったが、少女の勢いに気圧されるようにして亜沙子は目を逸らした。 『使うけど、後で……』 『後なんていや! 押し込められるのは真っ平なんだから!』  傘の少女はなおも少女の勢いの良い主張を続け、亜沙子がたじろいだところでふと景色が切り替わった。  亜沙子は瞼を持ち上げた。  薄青の雨の世界から、突如見慣れた天井になる。  ――ああやっぱり夢だったのだ。  安心したような、少し残念なような気持ちがあった。だが傘の少女の声は妙にくっきりと耳に残っている。スマホの画面はデジタル時計が21時を示していた。 (……変な夢)  傘を気に入るあまり、頭の中で擬人化までしてしまったらしい。 (本当にそうだったらよかったのに)  亜沙子は細く息を吐いた。使えるものなら使ってるって、と夢で見た少女に心の中でつぶやいた。  ――しかし少女はその後も亜沙子の夢の中にたびたび現れた。 『なんで置いてけぼりにするの!』 『あたしが可愛いからってオブジェにでもするつもり!? あたし、傘なのよ!』 『ビニール傘(あんな奴)のどこがいいのよ!? ぺらっぺらで顔色も悪いし実力だってあたしのほうが上よ!』  傘の絵から受けた可憐な印象とは対照に、夢の中に出てくる彼女は勝ち気で自己主張が強かった。  亜沙子は幾度となく答えを濁した。連続した夢を見るのも奇妙なことで、まるで現実のようにも思えるし、擬人化した傘相手に萎縮するなどというのもずいぶん妙な話だった。  だがあまりにも少女が頻繁に出て来て催促するので、またしばらくは平和な学校生活が続いたこともあって、ついに根負けした。  といっても、もともと自分でも気に入っていて使いたいと思っていたものなのだ。  一瞬脳裏をよぎった松下たちの声と姿を押し込めて、すっかり乾いてしまっているお気に入りの傘を持ち出した。  ぱらつく雨の中、きれいな空色に白い少女のシルエットが浮かぶ傘に守られ、朝の通学路を行く。いつもは少し憂鬱なのに、今日は足取りが軽い。 (……やっぱ、いいよね)  無難な、ビニール傘とはまったく違う。ここのところ使っていた、透明で、ある色といえば白ぐらいの傘は、完璧な“普通”で、誰からももっとも文句を言われにくい柄だ。  しかし透明なだけに心許なく、また世界がまるきり透けて見えてしまう。隔てられておらず、守られているという感じがない。  いま亜沙子の頭上で大きな翼を広げるようにして開いた傘は、美しい空色をしている。そこにはっきりと浮かび上がる少女の無垢なシルエットを見ると、連日、夢の中に現れるあの少女の、得意満面な顔が浮かぶようだった。  亜沙子はそれにつられて笑いそうになり、堪えるのに少し苦労した。 『あのさ、あなた、傘の守護霊とか何かなの?』  あるとき、いつものように夢の中で少女に会って亜沙子はそう聞いてみた。  少女は、名を聞いても不思議そうな顔をするだけだった。自己主張が強いわりに、あたしは傘よ、というだけだ。  なら、おとぎ話とかによく出てくる傘の精霊とか擬人化とかそういうものなのだろうか。 『あたしは傘よ。あたしはあたし』 『そ、そうじゃなくてさ。傘はそうなんだけど、でも、なんで人型になってるの? なんで私の夢に出てくるの?』 『あなたがあたしを所有してるから、こうして会ってるんじゃないの』  何がおかしいのか――そう言わんばかりの口調で逆に聞き返され、亜沙子は答えに困った。  当然だという態度で言い切られてしまえば、そういうものなのか、と妙に納得してしまう。そもそもこれらすべてが夢の中のやりとりではあるが、これまでに見たことが無いほど鮮やかで現実感のある夢だった。 『……傘が喋るって、なんかすごい』  亜沙子はぽつりと言った。  少女は相変わらず不思議そうな顔のまま、 『だって、言わなきゃ伝わらないじゃない』  ――と、言った。  その何気ない様子の返事に、だが亜沙子はふいに胸に突き刺さるものを感じた。 (……言っても無駄なこととかもあるし)  ここのところ忘れられていたはずの松下たちの姿がよぎり、じわりといやなものが胸に広がる。  どうしたの、と怪訝そうな顔をする傘の少女に、なんでもないと慌てて頭を振った。  ――そんなところまで、夢とは思えぬほどリアルだった。  名前も知らぬ傘の少女は、次第に亜沙子にとって親しい友人のような存在になっていった。  傘として外に持っていくと、その間のことは少女もしっかり見聞きしているらしく――そもそもこれは亜沙子の夢ではあったけれど――共通の体験ができた。夢の中でそのことについて話すのは楽しかった。  話せば話すほど、少女は不思議な存在だった。 『どうしてみんな同じ服を着ているの?』 『中学校? それ何?』  年が変わらないように見えるのに、彼女は学校や学生といったものを知らなかった。それ以外に、年頃の子が知っているはずのことを知らなかった。  亜沙子のほうが驚くほどで、当の少女本人は気にする様子もない。代わりに、目を輝かせて言うのだった。 『アサコ、もっとたくさんお出かけしましょう! ちゃんと雨の日に出るのよ! あたしが連れてってあげる!』  現実に彼女がいたら、亜沙子の手をとってぐいぐい引っ張っていきかねない勢いだ。  実際に傘(少女)を持っていくのは亜沙子のほうで、しかも少女とは夢の中でしか会話できない。  それでも、少女の底抜けの明るさや自信は不思議と亜沙子に心地良く感じられた。  彼女のような友達は、現実にはあまりいなかった。  彼女のおかげで、雨の日が一層楽しくなったことは事実だった。  ――だから、忘れていた。もっとも警戒しなければならなかったものがあることを。  その日も雨で、亜沙子はいつもの相棒(、、)を持っていった。  夢の中での邂逅のためか、薄青の傘はますますお気に入りになっていた。  朝から降る雨が、傘に弾かれてパラパラと音をたてている。持ち手を前で抱えるようにさしているから、視界の上は少し遮られている。  ――アサコは、(あたし)で頭まで隠そうとするのよね。周りが見づらくなっちゃうんじゃないの? どうしてそんなに覆おうとするの? もしかして雨合羽のほうが好きだったりするの?  ふいに、少女が不思議そうに言った言葉を思いだし、笑ってしまいそうになった。  雨合羽よりもちろん傘のほうが好きだけれど、少しでも多く覆われて守られたいのだ――そう答えた。 「あれ松丘じゃね?」  温かな記憶に浸っていた亜沙子の意識を、嘲笑う声が引き裂いた。びくりと肩が揺れる。背後からの声――振り向かなくてもわかる。  松下瑠璃唖たち。  とたん、どっと鼓動が乱れはじめる。 「うわ、あの傘ヤバ、キショすぎ」 「あは! 本人キショいから合ってるんじゃね」  ぎゃはは、と甲高い笑い声が亜沙子の耳をつんざく。  亜沙子は唇を噛み、傘の柄を強く握ってうつむいた。自分を隠すように、他の何も見ずに済むように。  うつむいて、足早に歩く。  遠のく声は、まだ自分の悪口を言っている。  頬をぶたれたような衝撃だった。  やっぱりこの傘はお気に入り――素直にそう思えるようになっていたのに、その気持ちに泥をかけられたかのようだった。  何よりも、傘の中の少女まで悪く言われた気がして、なのに相手と目さえ合わせずに 逃げている自分が、ひどく臆病で卑怯な人間に思えた。  はじめて、あの傘の少女に会いたくないと思った。 『アサコ、あの人たちは何? どうして(あたし)のことを笑ったの?』  亜沙子の気持ちとは裏腹に、その日の夜も、夢の中の彼女(、、)は現れた。  眉をひそめ、怒りと疑問がまじったような顔をしている。  あの人たち、というのが今朝の松下瑠理唖たちであるということは間違いなかった。  亜沙子は少女の顔をまともに見られないまま、ぼそぼそと言い訳めいた説明をした。  松下瑠理唖たちに目をつけられ、もうずっとああいう態度をとられているということ。傘が悪いのではなく、自分が持っている傘だから悪く言われているということ――。  少女は目を丸くしてそれを聞いたが、そのあとにやはり顔をしかめた。 『わけがわからないわ。アサコがあの人たちに何かをしたわけじゃないのなら、アサコは悪くないじゃない』  憤慨した声が言った。亜沙子は目を見開く。胸にさっと温かいものがさしこんだようだった。  おずおずと少女を見ると、目と目が合った。  少女の目が薄く青みがかって、静かな水面を思わせる色であることにはじめて気づく。 『……なら、どうして言い返さないの?』  亜沙子は息を止めた。少女の言葉は真っ直ぐに貫き、言葉を詰まらせた。  だが次の瞬間、かっと強い羞恥と怒りまじりのものがわきあがってきた。言い返せなかった――今朝覚えた自己嫌悪までも思い出す。 『あ、ああいうのは無視が一番なんだよ! 言い返したら何されるかわからないし……っ』 『わからないわ。不当なら不当と言うべきで、いやならいやと伝えるべきよ。言葉にしなきゃ伝わらないじゃない』  少女は真っ直ぐに言い返した。そのの言葉はあまりに正論だった。学校も学生も知らない者の――現実をまるきり無視した言葉。 『っ、何も知らないくせに!』  亜沙子は叩きつけるように叫び、少女を睨んだ。 『あ、あんたなんかただの傘じゃん! 松下たちから守ってもくれないくせに……、私の気持ちなんかわからないくせに、偉そうなこと言わないでよっ!!』  少女は湖のような目を大きく見開く。瞳の中の水面に細波が立ったように見えた。  だがその細波はすぐに凪いでゆき、静かな眼差しが亜沙子を射た。 『……アサコがいつも目深に傘をさすのは、あたしに守ってほしかったからなのね。雨だけでなく……』  亜沙子はぎゅっと奥歯を噛んだ。まるで保護者のような物言いをする少女に反発も羞恥も覚え、唇を震わせる。 『あたしには確かに雨からアサコを守ることぐらいしかできないわ。アサコをあの人たちみたいな人間から隠してあげることまではできないし、アサコの代わりに言い返すこともできないけど……』  隠してあげることはできない、という言葉が、亜沙子に鈍く重く突き刺さった。  守ってくれない。まるで裏切られたような気分だった。  それでも少女は恥じる様子もなく、亜沙子をひたむきに見つめて言った。 『でも、これだけは忘れないで。傘は雨に抗うためにあるの。雨の中でも、人が前を向いて進むためにあるのよ』  今度は力強い声が、亜沙子の胸を貫く。  はっとして亜沙子は顔を上げた。一瞬、少女の静かな表情が見えた。別人のような顔。  だが溌剌としたその瞳に熱があり、これまでにないほど鮮やかに、確かな存在感を持ってそこにあった。 『アサコ、(あたし)は何もしてあげられないかもしれない。でも、見守っているんだからね。傘を開いたら、あたしがすぐ側にいること、ちゃんと思い出すのよ!』  亜沙子は、何か言おうとした。  ――そこで、目が覚めた。  喧嘩ともいえぬほど、亜沙子が一方的に声を荒らげて少女に反発して以来、彼女は夢に現れなくなった。  はじめこそ亜沙子もまだ反発していて、以前のようにビニール傘を使った。だからそのせいかと思っていた。  だがこれまで頻繁に現れていた彼女が唐突に現れなくなってしまったことで、次第に寂しさと不安を覚えるようになり、また冷静さが戻って来てばつの悪い思いをした。  言い過ぎたのだ。だから、謝ろうと思った。  おそるおそる、少女の傘を持っていって、どきどきしながら夢の中に現れるのを待った。  しかし、少女は現れなかった。次の日も、その次の日も。  彼女は怒っているのかもしれない。  亜沙子はひどく気落ちすると同時に、目の奥に痛みを感じた。ともすると溢れ出してしまいそうだった。  あんなこと、言わなければよかった――。  言い返さないのが一番だなんて、自分が一番わかっていたことだったのに。  それでも時は過ぎ、雨も降り続けた。  亜沙子は細い望みをたどるように、少女の傘を使い続けた。  登校中、ふと見上げれば、濡れた薄青の生地に白く浮かび上がる少女のシルエットがある。  ――ねえ、謝るから、戻ってきてくれない?  亜沙子は心の中でそう呼びかける。答える声はない。  だが感傷に浸りかけた意識を、無理矢理引き裂く声があった。 「うわ、またいるし」  くすくす笑いに、びくりとする。前方からだった。  亜沙子はとっさに傘の柄を握りしめた。ぎゅっと胃を引き絞られるような感覚。  傘の少女のことで頭がいっぱいで、いまは余裕がない。ただでさえ松下たちになど会いたくないというのに。  あの少女はいなくなってしまったのに、松下たちはいまだそこにいて、やはり自分に悪意を向けている――。  せめて顔だけでも隠そうと、傘を深く低めに持つ。松下達から隔てられ、逃げられるように。  ――そのときふいに、少女の声が耳元に蘇った。  どうして言い返さないの、という声。  少女がすぐ側で話しかけてくれたように感じて、亜沙子は傘を見た。雨の中を軽快に歩く白い少女のシルエットは間近にあった。 「何してんの、あれ?」 「傘じっと見ててキショ」  耳に突き刺さる悪意の声に、亜沙子はぐっと奥歯を噛み、うつむく。  すがるように傘を握る。固く確かな感触だけがかえってくる。  頭の上に広がった少女のシルエットは何も言ってはくれないし、松下たちから隔ててはくれない。隠してあげることはできない、と少女が言っていたことを思い出す。  それと同時に。 “見守っているんだからね。傘を開いたら、あたしがすぐ側にいること、ちゃんと思い出すのよ!”  どくん、と亜沙子の心臓がはねた。不快な乱れとは違う、熱く脈打つもの。傘を握る手に力がこもる。  傘が守ってくれても、雨のために空気は湿った冷たさを帯びている。――それでも、傘を握った手は不思議なほど熱い。  亜沙子は顔を上げる。傘を少し高く持ち上げる。世界をもう少しだけよく見るために。 “傘は雨に抗うためにあるの。雨の中でも、人が前を向いて進むためにあるのよ”  雨の中に、派手なプリントのされたビニール傘をさす松下瑠理唖たちが見える。  自分を嗤う顔を、亜沙子ははっきりと真正面から睨んだ。  傘の下で、自分の体が熱くなり始めている。  その熱さにかきたてられて、口を開いた。 「……キショいって何。この傘、キショくなんかない。どうしてそんなこと言うの?」  
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