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あぁ、また傘がない。
桜居結は、傘立ての前で溜息を吐いた。
小学校が終わった後、夕方までの時間を過ごした地元図書館から、家へ帰るところだった。
サービスカウンターにいる図書館員に挨拶をして、玄関へ向かう。風除室に置かれた傘立ての前で、自分の傘を探していた。
結の傘は、コンビニで買った透明なビニール傘で、手元に星やハート柄のシールを貼っていた。
その傘がない。ここで傘がなくなったのは、これで三度目だった。
がっくりと肩を落とし、結は館内へ戻った。
前回、前々回と傘がなくなったときに、館員のお兄さんに「困ったことがあったら声をかけてね」と言われていた。
話せば解決する問題ではないが、問題が起きたらまず報告というのが結の中で義務化されていた。
カウンターの中で作業をする館員のお兄さんに、声をかける。
「すみません。また傘がなくなりました」
同じ報告の後、前々回にあたる一度目は「じゃあ、倉庫にある忘れ物の傘を貸してあげるよ」という話になった。だが結は、申し出を断った。
忘れ物の傘も、人の傘だ。もし結が借りている間に所有者が現れたら、結と同じ思いをすることになるかもしれない。そう考えたら、借りる気は起こらなかった。
思ったままを話したら、お兄さんは「気にしなくてもいいんだよ」と苦笑した。
「忘れ物には保管期間があって、持ち主が現れないと破棄される。今、倉庫にある傘は、次の大掃除で捨てるものなんだ。でも、桜居さんが傘の立場だったら、まだ使えるのに捨てないでって思うでしょう?」
館員のお兄さんは、涼しい顔でさらっと怖いことを言った。
「僕は、まだ使えるものは必要としてる人に使ってほしいし、桜居さんが雨の中を濡れて帰って、風邪を引くようなことになったら嫌だよ」
優しく諭すような声だった。
親切心に、結の意思は揺らいだ。それでも意固地に、首を横に振る。忘れ物の傘だって、やっぱり人の傘だ。捨てられると決まっていても変わらない。
「雨が止むの、待ってみます」
そう言って、逃げるように玄関へ戻った。
けれど、その後も雨が止む気配はなく、お兄さんは、結に折りたたみ傘を差し出した。
「僕の傘を貸してあげるよ。今日は差してきた傘があって、使わないからね」
自信に満ちた様子で、お兄さんは「それならいいでしょう?」と言う。迷った末、結はお兄さんの折りたたみ傘を借りて家へ帰った。
前回と、前々回は、その流れだった。
けれど三度目の今日、結はお兄さんの提案を断った。
「今日は傘、いいです。ありがとうございます」
頑なに繰り返す。誰の迷惑にもならないと言われても、申し訳なさがあった。けれど、人の親切を拒むこともまた、結に罪悪感を抱かせた。
館員のお兄さんは、説得を諦めるとカウンターへ戻っていった。
その背を見送り、結は玄関先に目を向けた。
ひっきりなしに雨粒が弾ける地面からは、小石を撒くような音がする。夕空は黒い雨雲に覆われていた。
傘もなしに帰りようのない現状に、ただぼんやりと空を見上げていたときだった。
「なに、お前? 傘忘れたの?」
高い声が、すぐ後ろから聞こえた。振り返ると、結と同い年くらいの年格好をした男の子が立っていた。
小さな手が、傘立てから自分の傘を抜き取る。その動作に、結は羨望の念を抱いた。
そんな結の内心などつゆ知らず、男の子は発言の後に怪訝な顔で首を傾げ、ぱっと相好を崩した。
「って、そんなわけねえよな! 何言ってんだ俺。今日、朝からずっと雨だったじゃん」
なぜだか男の子は一人で楽しそうだった。くっきりとした二重の目が結を見る。
「なに? 傘盗られたの? ヤな奴がいるもんだなー。図書館の人に言ったら? 傘くらい貸してくれるんじゃん?」
「それならもう言ったよ」
「えー? 何も貸してくれなかったの?」
「断った。忘れ物だって誰かの傘だし、お兄さんの傘を借りてばっかなのもイヤだから」
「なんかよくわかんないけど、お前マジメだな!」
男の子は快活に笑って、結の肩をばんばんと叩いた。
初対面なのに、よく喋る子だなと思う。でも、おかしな子じゃないし、悪い子でもなさそうだ。馴れ馴れしくて遠慮がないけど、今の結にとっては励みになった。
けれど、男の子は結の脇を通り過ぎ、空に向かって黄色い傘をぱっと開いた。
そのまま帰ってしまうのかと見ていると、男の子はくるりと振り返った。
「早く来いよ。一緒に帰ろーぜ!」
言いながら、男の子は急かすように、傘の下を半分開けた。
「え?」
「え、じゃねーよ。お前、家近いだろ? 学校で顔見たことあるもん。名前は忘れたけど。送ってってやるよ」
「でも……」
「でもじゃねぇ! 早く帰んないと、俺が姉ちゃんにぶっ飛ばされんの!」
早く早くと、足踏みする。
「いいから行くぞ」
男の子は結の手を掴むと、隣に引き寄せた。雨粒が、男の子の肩を濡らす。傘は、二人に降り注ぐ雨を遮るには小さかった。それでも彼は、雨空に傘を掲げた。
雨が降りしきる暗い空の下を、二人は肩を並べて歩いた。
「そういえば名前。俺は芳田登。お前は?」
「三年一組の桜居結」
「隣のクラスだ。よろしくな!」
結の答えに、登は嬉しそうに笑った。
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