図書館の鍵なし傘立て

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  1  あぁ、また傘がない。  桜居結(さくらいゆい)は、傘立ての前で溜息を吐いた。  小学校が終わった後、夕方までの時間を過ごした地元図書館から、家へ帰るところだった。  サービスカウンターにいる図書館員に挨拶をして、玄関へ向かう。風除室に置かれた傘立ての前で、自分の傘を探していた。  結の傘は、コンビニで買った透明なビニール傘で、手元に星やハート柄のシールを貼っていた。  その傘がない。ここで傘がなくなったのは、これで三度目だった。  がっくりと肩を落とし、結は館内へ戻った。  前回、前々回と傘がなくなったときに、館員のお兄さんに「困ったことがあったら声をかけてね」と言われていた。  話せば解決する問題ではないが、問題が起きたらまず報告というのが結の中で義務化されていた。  カウンターの中で作業をする館員のお兄さんに、声をかける。 「すみません。また傘がなくなりました」  同じ報告の後、前々回にあたる一度目は「じゃあ、倉庫にある忘れ物の傘を貸してあげるよ」という話になった。だが結は、申し出を断った。  忘れ物の傘も、人の傘だ。もし結が借りている間に所有者が現れたら、結と同じ思いをすることになるかもしれない。そう考えたら、借りる気は起こらなかった。  思ったままを話したら、お兄さんは「気にしなくてもいいんだよ」と苦笑した。 「忘れ物には保管期間があって、持ち主が現れないと破棄される。今、倉庫にある傘は、次の大掃除で捨てるものなんだ。でも、桜居さんが傘の立場だったら、まだ使えるのに捨てないでって思うでしょう?」  館員のお兄さんは、涼しい顔でさらっと怖いことを言った。 「僕は、まだ使えるものは必要としてる人に使ってほしいし、桜居さんが雨の中を濡れて帰って、風邪を引くようなことになったら嫌だよ」  優しく諭すような声だった。  親切心に、結の意思は揺らいだ。それでも意固地に、首を横に振る。忘れ物の傘だって、やっぱり人の傘だ。捨てられると決まっていても変わらない。 「雨が止むの、待ってみます」  そう言って、逃げるように玄関へ戻った。  けれど、その後も雨が止む気配はなく、お兄さんは、結に折りたたみ傘を差し出した。 「僕の傘を貸してあげるよ。今日は差してきた傘があって、使わないからね」  自信に満ちた様子で、お兄さんは「それならいいでしょう?」と言う。迷った末、結はお兄さんの折りたたみ傘を借りて家へ帰った。  前回と、前々回は、その流れだった。  けれど三度目の今日、結はお兄さんの提案を断った。 「今日は傘、いいです。ありがとうございます」  頑なに繰り返す。誰の迷惑にもならないと言われても、申し訳なさがあった。けれど、人の親切を拒むこともまた、結に罪悪感を抱かせた。  館員のお兄さんは、説得を諦めるとカウンターへ戻っていった。  その背を見送り、結は玄関先に目を向けた。  ひっきりなしに雨粒が弾ける地面からは、小石を撒くような音がする。夕空は黒い雨雲に覆われていた。  傘もなしに帰りようのない現状に、ただぼんやりと空を見上げていたときだった。 「なに、お前? 傘忘れたの?」  高い声が、すぐ後ろから聞こえた。振り返ると、結と同い年くらいの年格好をした男の子が立っていた。  小さな手が、傘立てから自分の傘を抜き取る。その動作に、結は羨望の念を抱いた。  そんな結の内心などつゆ知らず、男の子は発言の後に怪訝な顔で首を傾げ、ぱっと相好を崩した。 「って、そんなわけねえよな! 何言ってんだ俺。今日、朝からずっと雨だったじゃん」  なぜだか男の子は一人で楽しそうだった。くっきりとした二重の目が結を見る。 「なに? 傘盗()られたの? ヤな奴がいるもんだなー。図書館の人に言ったら? 傘くらい貸してくれるんじゃん?」 「それならもう言ったよ」 「えー? 何も貸してくれなかったの?」 「断った。忘れ物だって誰かの傘だし、お兄さんの傘を借りてばっかなのもイヤだから」 「なんかよくわかんないけど、お前マジメだな!」  男の子は快活に笑って、結の肩をばんばんと叩いた。  初対面なのに、よく喋る子だなと思う。でも、おかしな子じゃないし、悪い子でもなさそうだ。馴れ馴れしくて遠慮がないけど、今の結にとっては励みになった。  けれど、男の子は結の脇を通り過ぎ、空に向かって黄色い傘をぱっと開いた。  そのまま帰ってしまうのかと見ていると、男の子はくるりと振り返った。 「早く来いよ。一緒に帰ろーぜ!」  言いながら、男の子は急かすように、傘の下を半分開けた。 「え?」 「え、じゃねーよ。お前、家近いだろ? 学校で顔見たことあるもん。名前は忘れたけど。送ってってやるよ」 「でも……」 「でもじゃねぇ! 早く帰んないと、俺が姉ちゃんにぶっ飛ばされんの!」  早く早くと、足踏みする。 「いいから行くぞ」  男の子は結の手を掴むと、隣に引き寄せた。雨粒が、男の子の肩を濡らす。傘は、二人に降り注ぐ雨を遮るには小さかった。それでも彼は、雨空に傘を掲げた。  雨が降りしきる暗い空の下を、二人は肩を並べて歩いた。 「そういえば名前。俺は芳田登(よしだのぼる)。お前は?」 「三年一組の桜居結」 「隣のクラスだ。よろしくな!」  結の答えに、登は嬉しそうに笑った。
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