【5000☆感謝記念SS】月に手を伸ばす

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 言われて初めて、志岐がクラスのなかで誰ともつるまず、いつもひとりでいたことをいまさらながらに思い出す。特にいじめられているわけでも無視されているわけでもなく、ただそこに「いる」だけの無口なクラスメイトが、だからある日突然、演劇部の扉を開いて入ってきたときには、いったいどういう風の吹き回しだと、呆れるとともに度肝を抜かれた記憶がある。 「今でも正直、人前で話すのは苦手なままだよ。そんなやつが、本当に大勢の観客の前で役を演じられるようになんてなるのかって自分でも思う。……でも、勝手な思い込みかも知れないけど、俺はあのとき、あの舞台から、何かとても大事なものを託されたような気がしたんだ。だから、いつか俺もそれを返せるようになるまでは、自分が今できる限りのことをしてみようと思ってる。──自分でも今まで気が付かなかったけど、こう見えてけっこう諦めが悪い性格みたいなんだよ、俺」  そう言って照れくさそうに笑う志岐の横顔を、月のひかりが祝福するようにやわらかく照らし出す。そこには、ただ一途に夢に邁進するものだけが持つ敬虔なきらめきがあり、それを見る天羽の胸にも忘れていたはずのかすかな温もりを灯した。 「……なんてな。──さて、天羽が落ち着いたんならそろそろ帰ろうか」  我に返ったふうに自らの語尾を茶化した志岐が、ペットボトルをひと息に呷ると身軽にベンチから立ち上がる。それに頷いて、促されるまま自転車置き場に戻ろうとした天羽の耳にその間際、誰にともなくといった感じで付け足された小さな声がかろうじて届いた。 「……それに、あの子にももう一度会いたいし」
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