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 その久遠のひと声を合図に、役者を含めた照明や音響などのスタッフのあいだにも緊張感から解放されたことによる穏やかなさざめきが広がる。次のシーンに向けての打ち合わせや準備に余念のないもの、稽古場に設置された器具で簡単なストレッチを始めるものとおのおのの時間を過ごす劇団員たちのなか、烏丸だけがひとり、一服するためになのか非常階段へと続くドアの向こうにふらりとすがたを消した。  その背中を何とはなしに見送ってから、志岐はようやく胸に溜めこんでいた鬱屈を大きなため息とともに吐き出す。おのれへの悔恨と情けなさ、そして先程烏丸から言われたきついひと言に対する反発が胸のなかで渦を巻き、さらには演技への迷いと相まって志岐を深い内省に追い込む。  ──……やっぱり向いてないのかな、役者。  これまで何度となく頭をよぎった弱音をいま一度胸に返して、志岐はほかのひとには見えないようにそっと唇を噛む。この役者の世界において何よりも必要なのが過剰なくらいの自信と矜持であることは、ほかの先輩劇団員たちを見ているうちに自然に学んだ。だとしたら、やはり自分は、その資質でもあり才能でもあるおのれを信じる能力に欠けていると言わざるを得ない。 「──志岐」  と、無意識に丸まってしまっていた背中をやさしく叩かれ振り向くと、穏やかな笑みを浮かべた伊能がはい、と両手に持っていたペットボトルを一本こちらに差し出してくる。反射的に受け取ってしまってから、あ、代金、と慌ててポケットを探ると、そんなのいいから、と苦笑しつつ、床に座り込んでいた志岐の前に回り込むと促すように先んじてキャップを開けた。
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