雨が降ったら、手を取って。

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そんな思いを抱えて、雨の日を何回過ごしただろう。 その頃の私の「雨待ち」場所は駅近くのコンビニの前だった。このコンビニにも、もう顔も覚えていない誰かに連れられて来た。1時間ほど電車に乗ってここに来て、コンビニの前で置き去り。もちろんその人ともそれっきり。でももう慣れていた。 コンビニの前で雨待ちをしながら、ぼんやりと店員たちの様子を眺めていた。その中に、なぜか少し気になる青年がいた。 もう少年とは呼べないくらいの年齢で、身長は平均的な成人男子くらいだった。女の子が羨ましがるような細い身体に長い手足がいかにも最近の若者らしい。物静かで口数が少なく、おとなしそうというのを通り越して最早とっつきにくい雰囲気を纏っていた。 あれはかなり勇気のある人じゃないと話しかけられないだろうなあ。もう少し話しかけやすかったらモテそうなのに、もったいない。彼に対しての印象はそんなものだった。 彼はその印象通り、熱血にバリバリ仕事をすることはないがいつも真面目に淡々と業務をこなしていた。仲間からの評判も悪くないらしい。ただ彼はシャイなのだろう、お客さんに対する愛想も「それ接客業としてどうなの?」と言いたくなるくらい必要最低限といった感じで、私はそのうち彼が店長に注意されるんじゃないかとヒヤヒヤしていた。 コンビニ店員であるにも関わらず、お客さんに対して全く愛想のない青年。 ――この人、女の子を好きになることってあるのかな? そんな疑問を持っていたから、あの一瞬で私はすっかり彼のことを好きになってしまったのだ。 ある日のことだった。 彼はその日昼間からシフトに入り、相変わらず淡々と仕事をこなしていた。夕方6時前、帰宅時の駅前のコンビニにしては珍しく客足が引いた。その時、ギターを背負った青年がコンビニに入り、商品の陳列をしていた彼に話しかけた。彼は時計を一瞥して何か答えていた。あと何分でシフトを上がれるのか質問されたのだろう。とするとギターの青年は彼を迎えにきた友達だろうか。 それからギターの青年はしばらく雑誌コーナーで立読みをしていた。6時過ぎになると、私服に着替えた彼が裏口から店の正面に回ってきた。今日のシフトは6時までだったらしい。彼は正面の扉から身体を半分店内に乗り出し、ギターの青年に声をかけた。 バイトに入る時の彼の出入りはいつも裏口からだったから、彼が店の正面に回ってきたのはそれが初めてだった。ガラス越しにしか見たことがなかった彼が私のすぐ隣にいた。その距離感に思わず緊張してしまった。 そしてその近距離で、彼が笑ったところを見たのだ。 お客さんに対しても愛想のない彼が、友達と楽しそうに話しながら笑っていた。ギターケースをライフルのように構えて撃つ真似をする友達に合わせて、撃たれる真似までしてふざけている。あの無愛想な彼が。その姿は年相応どころか、年齢よりも随分若い無邪気な少年のように見えた。 そうか、この人は心を許した相手にはこんな風に笑うのか。お客さんに対して無愛想なのは、営業用スマイルを作れないからだろうか。心の底から笑った時しか笑顔になれない人なのだろうか。だとしたら、この人が私に、そんな心の底からの笑顔を向けてくれたらどうだろう。それこそ一瞬で恋に落ちてしまうかもしれない。 そう思ったが最後、私は「恋に落ちてしまうかもしれない」ではなく「落ちてしまった」のだった。 それからの私は毎日、雨待ちをしながら考えていた。雨が降ったら、バイト上がりの彼が私の手を取ってくれないかしら。そうしたら彼は私をどこに連れて行ってくれるかしら。男の子だし、バイト上がりならお腹も空いて定食屋にでも行きたいかな。最近話題のお洒落な喫茶店だったらどうしよう。でもそうしたら、こんなお洒落お店どうして知ってるの、誰と来たの、なんて見知らぬ誰かに妬いてしまうかもしれない。そんなことすら考えた。取らぬ狸の皮算用とはきっとこのことだ。 けれど私が本当に望んだのは、彼とそんな刹那的な時間を過ごすことではなかった。またうっかり期待してしまったのだ。彼が私の手を取って、そのまま彼の一番にしてくれることを。彼が私を大切にしてくれることを。 期待して、その度に期待が外れて傷ついて、懲りずにまた期待して、また傷ついて。そんなことをあれだけ何度も繰り返したのに。もう期待しないと決めたのに。 もし彼が雨の日に私を連れ出してくれたとしても、そのままずっと一緒に居てくれる保証はない。これまでの人たちのように、そのうち私をどこかに置いて行ってしまうかもしれない。私の方だってそういう付き合い方を受け入れてきたのだから過去の人達のことを悪く言うつもりはないけれど、彼も結局はその人たちと同じだったと知るのも辛いかもしれない。だったらいっそ永遠に彼に手を取ってもらわない方が私の為だ。そんな期待はしない方がましだ。期待した分、それが叶わなかった時に傷つくのは私だ。疲れるのだ、期待するのは。 それでもどこかで期待してしまうのは、これが恋だからだろうか。ああ、また懲りずに期待するなんて。私らしくもない。私を本命に選んでくれる人なんてきっといないのに。 そんな思考を何回繰り返した頃だろう。 思いがけないことはいつも、真夏の雨のように突然やってくる。 湿度の高い夏の夜のことだった。彼はその日もシフトに入っていた。深夜0時を過ぎたころ、雨が降り出した。スコールのような雨で、なかなか降り止まなかった。通り雨ではないらしい。暗い空は見渡す限り厚い雲に覆われていた。 雨が降り出して20分ほど経った頃だろうか。店内に向かってお疲れ様ですと投げかける控えめな声とともに、彼が店の正面の扉から出てきた。予想していなかった展開だった。彼はいつも、バイト上がりは裏口から帰っていくのだ。突然のことに完全に体が固まってしまった私の前に、彼が静かに歩いてきた。 そして彼は私のことをじっと見つめ、少し申し訳なさそうに私の手を取ったのだ。 あまりにも突然の展開だった。次の瞬間には、彼は私の手を握って雨の中へ歩き出していた。いつも姿を見るのはガラス越しだった。彼が私のそばに来たのは友達が迎えに来たあの一回だけで、その時彼は私に見向きもしなかった。そんな彼が、私と手を繋いで雨の中を歩いていた。昨日まで期待しているだけだったことが現実になっていた。 ねえ、せっかく手を取ってくれたのにどうしてそんな申し訳なさそうな顔するの。私、あなたと今日限りの関係でも悲しくなんてならないから。あなたも所詮今までの人と同じ、都合のいい時だけ私を求める人だったなんて思わないから。友達といる時みたいに笑わなくてもいいから。だからもう少しだけ、嬉しそうにしてよ。 もしもこれが今日だけじゃなかったら。この人が私を大切にしてくれたなら。この人の一番になれたなら。朝はこの人と一緒に家を出て、夜は同じ場所に帰る。そんな生活が出来たなら。持たない方が良いと分かっていた希望が、彼と手を繋いだだけであっさりと溢れ出してしまった。 その夜、彼は私を連れて定食屋さんにも喫茶店にも寄らなかった。真っ直ぐ家に帰ったのだ。物静かで口数が少なくお世辞にもコミュニケーションが上手だとは言えない彼だったから、その行動に戸惑ってしまった。彼は雨の中を、私の手を握ってまっすぐに歩いた。脇目も振らずに。あまりにも性急な様子に私も何も言えなかった。 彼の部屋はコンビニから歩いて15分程の住宅街の中にあった。マンションのロビーに辿りついて、エレベーターに乗り込んでも彼は何も言葉を発さなかった。 ねえ、何か言ってよ。あなたが私を連れてきたのよ。こんな大雨だっていうのに、私の手を掴んでここまで連れてきたのはあなたじゃない。何か気の利いたこと言ってよ。 そんなことを思ったが無駄だった。彼は物静かで口数は少なく、お世辞にもコミュニケーションが上手だとは言えない人だった。そんな彼を好きになったのは私の方なのだ。ここで気の利いたことを言ってよ、なんてのは違う。私は、無言の時間をさほど苦には感じていなさそうな彼に合わせることにした。 エレベーターが止まった。部屋の前に着くまでの間も、彼は相変わらず私の手を繋いだままだった。彼が部屋の鍵を回す音は静かな廊下によく響いた。 彼が部屋の扉を開けてからのことは、もう緊張でよく覚えていない。
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