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白い傘に近づくと、確かに、傘の覆いの下に、折り畳まれた制服のスカートが、ちらと見えていた。女の子だ。同じ高校の子だろうか。
僕は、そのまま通り過ぎようかと思った。女の子に話しかけられるわけがないし、そもそも、あの男の子の、不穏な命令に易々と従うのは、できないことだった。
僕がそうやって、少しの間、躊躇っていると、彼女は、多分、僕の傘に当たる「ぼたぼた」という雨音を聞いたのだろう、さっと振り返った。
「なに?」
僕を見つめる、黒い黒い瞳。小指ほどに開いた口。怪しむ人工的な眉毛。はさみで切ったような、ちぐはぐな短髪。あなたが何かを言うべきだ、と訴えかける、肩の小さな揺れ。
「あの……、ごめんなさい」
「なに?」
「いや、その……」
知らず知らずのうちに、僕は、もう片方の手で、鉄の中棒を掴んでいる。抱きしめるように。肩が内に閉じて、小さくなる。
「あぁ……。やりたいの?」
「え?」
「いや、だから、わたしとやりたいの?」
「やるって……?」
「やるっていったら、アレしかないでしょ?」
彼女は、素っ気なく、そう吐き捨てた。吐き捨てた……そう、溜息と一緒に。
僕は信じられなかったけど、「やる」の意味を、察した。
「で、いくら出せる?」
「その、あの、違うんだ。そういうわけじゃ」
彼女は、「ふうーん」と吐いて、肘をつき、指を閉じた手に顔をのせた。僕の横を、自動車が通り過ぎた。彼女は、水路の上の、小さな橋に、座っていた。その下で、色鮮やかな鯉が泳いでいた。鯉の、赤や白、黒や金の色が、降りしきる雨のために、揺れてぐらんぐらんに融解していた。
「で、なにしにきたの?」
「えーと……話しかけたくなって」
「わたしさ、篠沢唯奈ってゆうんだけど、知らない?」
僕はもちろん、知らなかった。この高校の生徒のこと、クラスメイトのこと、二年生になっても、僕は何も知らなかった。
「じゃあ、教えてあげる。わたし、お金のためにからだ売ってんの」
「え」
「色んな男が求めてくるから、それに応じてるわけ。偉いでしょ?」
「よくないよ。そういうの」
彼女の口元に浮かぶ、無理やりな微笑が、僕には悲痛な歪みに見えた。僕は間違いなく馬鹿にされていた。でも、彼女のやっていることは、よくないことだと、それだけは強く思った。
「教師もそういうよ。でも結局は、わたしに、やらせてってせがんでくるの」
「僕は……そういう人間じゃない」
「あんた女みたいだもんね。アソコちっさいでしょ?」
彼女は、いじわるな上目遣いで、僕を笑う。頬の横で、閉じた指同士をこする。
僕は、萎縮した自分を立て直そうと、声を出す。
「お金は、どうして欲しいの?」
「独り立ちするの。あんたと違って、子供じゃないから、わたし」
「違う方法で、稼いだ方がきっといいよ」
「それじゃあ、効率悪いでしょ」
「でも、効率より……自分を大事にしなきゃ、つらくなると思うよ」
「もう手遅れだけどね」
彼女は、泳ぐ鯉に視線をやって、どこか物憂げな、かたい面持ちになった。彼女の横顔が、この日の、雨の湿気が顔にまとわりつくような、重苦しさと一緒に、思い出へぼやけていくのを見ていた。
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