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それから彼女の急ぎ足に合わせて、僕は自分の心配を、繰り返すように、口にした。彼女は黙って聞いていたが、次第に自分の父のことを、言葉少なに語った。僕が知れたのは、お父さんが暴力を振るってるということだった。そして、お母さんは、離婚してもういないということだった。
「そんな家に、帰らないほうがいいよ」
「じゃあどこ行けばいいの? 知らない男のベッド?」
「それは……、嫌じゃないなら、僕の家でもいいよ」
「イヤだからやめとくわ」
それでも、彼女の物腰が柔らかくなったのを感じた。少しずつ、僕の言葉は届いているようだった。
或るアパートに入っていくと、ドアの前まで、彼女は僕を、追い返さずに進んでいった。僕はここまで来て、自分が次にどうすべきなのか、はっきりと、考えていないことに気づいた。
そんな僕に、目もくれず、篠沢さんはドアを開けた。
「パパー」
そう言いながら、彼女は中へ入っていく。
「おい……」
僕の右横で、あの声がした。屋根もあるのに、その子は、開いたドアの向こうで、変わらず傘をさしていた。青いレインコートから、雨粒が落ち、灰色の廊下に、黒い斑点を作っていた。彼自身の影を、この世に植え付けるように。
「よくやったな。これをやる」
右手を前に上げて、何か光るものを差し出した。――――包丁だ。
「そんなの、受け取れないよ」
「どっちでもいいから、刺せ」
「無理だよ」
「受け取れ」
「僕は殺さない」
「おぉぁ! 誰だこいつはぁ!」
体の大きな、ひげをあご全体にゴマのように生やした、よれよれのグレーのシャツを着た男が、僕の前に屹然と立っていた。僕はその巨体を見ただけで、怖気づいてしまった。
「彼、わたしの彼氏なの」
「あぁ?」
「あんたのへなへななアソコが嫌になって、彼氏作ったって言ってんのバカ」
彼女がそう言い終わった直後に、男は何も言わず、慣れた作業のように、篠沢さんの肩を掴み、奥へ突き飛ばした。彼女の甲高い叫びが、短く切れて響く。
「やめろよ!」
僕は男の片腕を掴んだが、両手でぎっちり挟み込んでも、意味なかった。ちょっと払っただけで、僕は外へ吹き飛んだ。尻もちをついた僕は、すっかりその衝撃に、飲み込まれて、動けなくなっていた。男の太い足が、こっちに向いているのに、僕は自分がどこを見ているのか、それすらわからず、混乱していた。
「この若造が!」
まるでサッカーボールを蹴るように、僕のみぞおちを、物凄いはやさで、男は一撃に蹴った。「うっ」っという、音が、自動的に僕の身体から出て、真っ暗闇のなか、倒れた。
「おぉぉい、ゆいなぁあ! ぶち殺すぞ」
そんな怒声が、放課後のチャイムみたいに、遠く鳴っている。恐ろしい喚き。僕は不能だった。僕は「父」を止めることさえできない。それは、ある意味では、当たり前のことだった。悔しいほどに当たり前のことだった。僕は非力で、男になれない男で、そんな人間は、女の子さえ、大事な人間さえ、守れやしないのだ。僕は、「去勢」された、子供だった。
「役立たずが」
低い声がした。それは、あの、黄色い傘をさした、レインコートの、子供の声だった。自分を、これから生まれる子供だと、そう語る、あの子の……。
「うわぁああああぁ! 何しやがる!」
赤い声が聞こえる。本当の叫びの、怯えたその声。篠沢さんの、父の声。まだ、野太い叫び。でも状況は、明らかに変わった。さっきまでの調子はどこにもなかった。震える、情けない声が、ほんの少しの間、絞り出されただけだった。そして、もう、静かになっていたのだ。
「やったぞ! やったぞ!」
あの子の喜びが、狂喜が、アパートの屋根にこもって、こだまする。
やった? ……何を……、いや、僕は、頭の隅で、気づいていた。父の声が、絶えたのを、僕は死の意味をもって、理解していたのだ。
「お前も……、お前も…………殺してやる! お前の腹に僕が宿ってないか、見てやる! 僕はそれで、完全に消えてしまえるのだ」
現実の歯車が壊れた音。篠沢さんの嘘みたいな、叫び。
その叫びが、僕を深い深い混沌へ連れていく、案内役みたいに。僕は何を聞いているのだろう。でも、確かにわかるのは、僕は失敗したのだ。だが、その失敗が、僕の予期せぬところまで続いているようだった。かなた向こうまで、叫びが続いている。雨の音さえない、暗い大地へ。僕は深く沈んでいく。
刃物の光が、暗闇に閃光を浮かび上がらせる。一瞬。
僕は、あの子が、何を成し遂げたかを、混沌の中で理解していた。
そして、その理解が、その現実の深い喪失が、僕を永遠に放心させていった。
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