エピソード5 月夜に笑う白狼

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エピソード5 月夜に笑う白狼

 ユリアの居場所はすぐに分かった。  とある一室の中から、重く、けたたましい破砕音が聞こえたのだ。 「ユリア!」  躊躇なく、部屋に踏み入ったオレは息を飲んだ。  無残にも切り裂かれたカーテンの隙間から、満月の白い光が差し込んでいる。  それが映し出す室内は、酷い有様だった。  本棚が倒れて、膨大な書籍が床に転がっていた。  投げ飛ばされたのか、壁には椅子がめり込んでいる。  緻密な細工の施されたテーブルはひっくり返り、真っ二つに割れていた。 「……ユリア?」  オレは坊ちゃんの姿を探して、目を眇めた。  薄暗い部屋から、獣のような荒い息づかいが聞こえてくる。 「おい、ユリア、何処に……」 「来ないで!!」  一歩、前へと進むと悲鳴のような声が鼓膜を打った。  ユリアだ。ユリアが荒れた部屋の端っこで、蹲っている。  大きな身体を縮こまらせて、両手で頭を抱えている。 「バンさ……すぐに、逃げて……お願い、だから……」  近くに短剣が転がっていた。  その周囲の床には、廊下に落ちていたものとは比べようもないほどの血が広がっている。  俺の体は、考えるよりも早く動いていた。 「バカ野郎! 何言ってんだ。すぐに手当てを……っ!」  どうしてもっと早くに踏み込まなかったんだろう。  いや、踏み込めなかったとしても、他に何かできることがあったはずだ。  例えば……彼を一人にしないとか。  夜も朝も、ずっと抱きしめていてやれば良かったのだ。  手首なんて切る隙を与えなければ良かった。  それをしなかったのは、オレの身勝手なエゴだ。 「来るなッ!!!」  咆哮にも似た声に、ギクリと歩みが止まる。  彼は交差させた腕を顔に押しつけて、掠れた声で続けた。 「お願いです……僕のことは、放っておいて……  でないと……僕は……僕は、あなたを……」  ガタガタとユリアが震え始める。  ついで、彼は思いきり床に頭を打ち付けた。 「お、おいっ……やめろってば!」  駆け寄ってユリアの肩を掴む。とにかく止めなくては。その一心だった。 「落ち着け。深呼吸しろ。大丈夫。大丈夫だから……」 「逃、げテ」 「……っ!」  顔を上げたユリアの瞳が、爛々と赤く輝いていた。 「今すぐッ! はヤくッッ! にげて、にゲ……  おネがイ……ニゲテニゲテニゲテ……ッ!!」  叫ぶ声はどんどん低くなっていき――  オレは……やっと、自分が思い違いをしていることに気付いた。  彼は、傷が深くて蹲っていたんじゃない。  止めるためだ。  彼は内から溢れ出ようとする、ナニかと戦っていた。 「……グ、ガ」  不鮮明な音の後、ユリアの柔らかな飴色の髪から色が抜けた。  床に立てていた丸い爪は一瞬で鉤爪へと変化し、  甲高い音を立てて絨毯を切り裂く。 「な……」  オレは呆然とその《変化》を見ていることしか出来なかった。 「ユリ、ア……?」  俺の目の前に――――一匹の真っ白な獣がいた。  熊よりも大きく凶悪な白銀の狼は、後ろ足で立つと天井を仰ぎ大きな口を開けた。 「……ォオオオオオオオッ!」  耳を劈く咆哮に、空気がビリビリと震える。  その瞬間、全身の毛穴という毛穴が開いて、ぶわっと冷たい汗が噴き出た。  この感覚は、よく知っている。  死だ。  死が、目の前で腕を広げてオレを待ち構えている。   「ふ……ヤツのオモチャが、自らやって来るとはな」  咆哮の後、獣の瞳がオレに向いた。 「ぁ……」  今すぐ逃げろと本能が告げている。  しかし、両足が床に縫い付けられたように動かない。 「今夜は退屈せずに済みそうだ」  地の底を這うような、低い声。  鋭い目が、残虐に光り、  明確な殺意を持って、鉤爪が振り下ろされた。
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