スポコン (没15)

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  『 ス ポ コ ン 』  (没15)  先日、私は久しぶりに体を動かしに近くの運動公園へ行った。ちょうど中学生の大会が終わったところで、選手たちが金網を背に整列していた。そして直立不動の生徒たちとは対照的に、監督(らしき人)は草の上にあぐらをかいたまま、先程までの試合内容に関して辛辣な言葉を並べていた。  私は中学生の頃、数ヶ月だけバレーボールに熱中した。転校生で途中から始めた上に、体も非力だった私は当然監督から目を掛けられる事はなかったが、全体練習では一応皆と同じ事をした。当時は日紡貝塚が『東洋の魔女』と言われて活躍していた影響から、中学生でも練習はかなり厳しかった。特に『回転レシーブ』は難しく、ミスをする度に罵声と同時にボールが連続で何個も飛んで来て、さらにミスを重ねると今度は監督がツカツカと歩み寄って再び強烈な罵声と共に(たとえ女子であろうと)鉄拳が飛んだ。  恐らく他の運動部でも状況は同じだったと思われるが、当時の大人たちは「激しい練習によって粘り強い体力を作り上げ、叱咤怒号で何事にも挫けない強靭な精神力を養える」と信じていた。もちろん『スパルタ教育』で才能が開花した生徒もいたに違いないけど、レギュラー入りを狙うどころか一向に上達しない私などは、(また怒られる)と萎縮して却ってミスをしたような記憶がある。  しかし時代は移り、今は体罰厳禁の時世となった。さぞかし部活も激変したと思いきや、あの光景はまさに独裁者が支配していた、かつての運動部を想起させるものだった。  確かに体は激しい練習によって鍛えられるはずだが、心が厳しい言葉で培われるとは思えない。目に見える傷だけが傷と限らず、わずかな嫌言も繰り返すうちに相手の心を突き通す凶器になりうる。現実にあの場面で鉄拳は見られなかったが、体罰とは必ずしもコブシを意味するものではなく、中々癒えない傷を心に残す言葉の暴力も体罰である、という認識を常に持ち続けなければならない。  あるいは指導者側に「俺たちはこれ以上の試練に耐えてきた。この程度の苦言でへこたれるようでは・・」という意識があるとしたら、日本の大人の心奥に潜む根性論はまさに日本人の原資質として決して時代と共に進化しないという証左だ。むしろ私には辛辣な言葉が指導者たちの情熱の発露ではなく、監督自身の苛立ちの噴出に近いように感じられ、科学が発達した現代こそ科学的な理論や練習法が生徒たちにも支持されるに違いない。  スポーツでコン気を養うのも、スポーツに精コンを傾けるのもいい。しかし、かつての部活を回想して『コン』畜生と思わせるようでは、スポーツが果たす本来の目的を達成した事にはならないような気がして、彼らが不惑の年齢になった時に中学生時代の部活をどう回顧するか、ほろ苦い思い出がある私にはとても気になる光景だった。
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