失われた記憶

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 アルコールで朦朧とした奏の瞳を覗き込んで、彼は言ったのだ。 「ねぇ、――――――」  肝心の言葉を聞く前に、奏はゆるゆると深い海の底から浮上するような感覚に襲われた。大切な大切な、あの日の記憶は水底に沈んだまま。もう手を伸ばしても届かない……  重たい瞼をゆっくりと押し上げると、目の前に由羅がいた。ぼんやりしたまま目を瞬く。 「……由羅?」 「あ、ごめん。シャツのボタン外そうと思って……」  こちらが目を覚ましたことに気づくと、奏の上に屈み込んでいた由羅が慌てて飛び退き、焦ったように何か言っている。しかし、奏にその言葉は聞こえていなかった。手を伸ばして由羅の手首を掴むと、手の中で由羅の身体がびくりと震えた。 「由羅……」  それが拒絶されたようで悲しくなり、名前を呼びながら腕を引くと、由羅が躊躇いがちに膝を折って隣に座った。奏は知らない間にあのモスグリーンのソファの上に寝かされていて、ちょうど顔の高さが同じになる。手首を掴んでいた手を持ち上げて白い頬をするりと撫でると、奏の意図を察したように由羅が顔を近づけてきたので、再び瞼を下ろした。 「……奏は、あの人のことが好きなの?」 「え?」  しかし、唇が重なることはなく、由羅が呟いた言葉に宙を漂っていた奏の思考が覚醒する。あの人とは誰のことだろう。戸惑いながら見上げて、ほんの数センチ先にある由羅の瞳が、悲しげに揺れていることにはっとした。 「梅原って人が奏を連れてきた。……奏は、あの人と番になりたかった?」  奏はびっくりして咄嗟に首を横に振る。由羅が離れていかないように、再び手首を強く握った。 「ち、違う!梅原は友達で、そういうんじゃない」 「本当?」 「うん」 「……じゃあ、奏は俺のこと好き?」  そう言った由羅はまるで捨てられた仔犬みたいな顔をしていた。奏は腹を括った。だって、こんな表情をされたら、もう由羅から離れられない。本能的に、今手を放したら絶対に駄目だと思った。
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