悪魔事件

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 夜明け前が一番昏い、という言葉は本物だった。  5年前から始めた妊活で、妻の秋穂(あきほ)の様相は瞬く間に悪いほうへ変化していた。桃のように丸みがあって血色の良かった頬はやつれ、長く伸ばした髪を毛先だけウェーブさせていたのが、気がついたらワカメになっていた。愛嬌のある丸い目の下にどす黒いクマを作り、伴侶の知宏でさえ見るに堪えないのだから、なにも知らない周囲は変わっていく秋穂を戦々恐々と見守っていたことだろう。 「もういい。子どもは諦める。こんな気持ちになるくらいならいなくていい」  ついに秋穂がこぼし始め、知宏もそうだなと頷いた。なにごとも潮時という言葉がある。いまはショックでも数年経てば、躍起になって子どもを欲しがっていた自分たちを笑いとばせる日が来る。  秋穂とは小学校からの同級生同士で、中学3年から交際し、くっついたり離れたりを繰り返しながら10年前に結婚した。あの頃はまさか自分たちが子作りに苦労するとは夢にも思わなかった。多くの青少年たちがそうであるように、覚えたての快楽で身を滅ぼす恐怖にさいなまれることもなく、およそ避妊行為とは無縁で生きてきた。いずれどこかで出来るだろう。出来たらそのとき考えよう。  そのときが、こんなにも遅いとは。もはや考えることも少ない。  
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