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(一)
遠い空で、雷が鳴り響いている。
太陽が沈み、薄暗い夕闇の中、細かい雨が降り始めていた。
(今日は、大事な話があるんだ。急がなくちゃ)
岡上トキオは、青いワイシャツが次第に濡れ始めたのも構わず、前をまっすぐ見て、歩を進めていた。
背中に、黒いリュックサックを背負っている。
(大切なものが入ってるんだ。転ばないようにしないと)
トキオは、右手に杖を持っている。
小学生の時、青信号で横断歩道を横断中に突っ込んで来た車に撥ねられ、重傷を負った。その後遺症により、右足が思うように動かせず、杖の世話になっている。
人並みに走ることはできないが、それでも一歩一歩踏みしめて、前へ進む。
大通りの上り坂を登り切ると、右斜め前方に、こんもりとした杜が現れた。
「天満宮」と白地に黒い文字で刻まれた扁額が掲げられた鳥居をくぐる。
細い参道は石畳になっており、手を清めるための手水鉢、小さな池などが左側に並んでいる。
右側には、近年の地震で倒れた灯籠が、崩れた姿のまま放置されていた。
(あれは、何だ?)
トキオは首を傾げた。
前方には、見慣れた天満宮の、やや古ぼけた茶褐色の本殿が建っており、左右対称の牛の像が座している。その脇で、何かが燃えていた。
(雷が落ちて火が点いたのか? それにしちゃあ、炎が青いな)
本殿の脇に、古い井戸がある。何故かこの神社の境内には七つもの井戸があるのだが、その一つから青い炎が上がっているのだ。
ちろちろと燃える青い炎に惹きつけられるように近づくと、井戸の傍らに佇む人影が見えた。
「美結(みゆ)さん! 何してるんです」
井戸は岩で囲まれた小屋の中にある。正方形の枡状に組まれた木材が一メートルほど地上に出ており、地下は十メートル近い深さだ。
美結と呼ばれた若い女は、上半身は純白の小袖を身に着け、緋色の袴を穿いていた。巫女の姿である。長い髪と白い肌が薄闇の中にあっても美しい。
美結は、トキオが近づいていることには気付いていない。
青い炎が上がる井戸の底をじっと見つめると、井戸の縁に手を掛けた。足元にある踏み台に右足を載せ、井戸の中へ向けて体を大きく傾ける。
「やめて! やめてください」
トキオは、杖を思い切り強く地面に突き、前へ急いだ。
美結は、既にに半身を井戸の中に入れている。
トキオは杖を捨て、懸命に美結に後ろから縋りついた。
美結の両肩を掴み、必死で後方に引く。美結とトキオは折り重なったまま、井戸の脇へ仰向けに倒れた。
「間に合った…」
トキオは、美結の下敷きになっている。息が上がっていた。
美結は、半身を起こし、トキオの前に正座した。
「トキオさん…」
二つの瞳に、涙をいっぱい浮かべている。
「お願い。死なせて。青い炎が…父の魂が呼んでるの」
立ち上がろうとする美結の右手を、トキオが掴んだ。
「だめだよ」
掴んだまま、トキオも半身を起こした。
お互い地面で正座したまま、向き合う。
「どうして…?」
トキオは、美結の手を握った。
「こんな跛の男は嫌いなの? 僕なんかと結婚する位なら、死んだほうがましだと」
一週間前、トキオは美結にプロポーズしていた。美結の誕生日である今日、返事を聞くことになっていたのだ。イエスならすぐに渡せるよう、婚約指輪をリュックに入れてきた。
「ううん」
美結は首を振った。
「トキオさんのことは好きよ。大好きよ。でも…」
「でも、何?」
「私、人殺しと思われているの。親戚じゅう皆に」
「は? 人殺し?」
「うん。今まで言えなかったけど…。二年前に、父がこの井戸に落ちて亡くなったでしょ。父を突き落として殺したのは、私だと思われているの」
「そんなの、濡れ衣でしょ」
「ええ。警察にもさんざん取り調べを受けたけど、証拠不十分ってことで疑いは晴れたの。法的には」
「なら、いいじゃん」
美結は首を振った。
「そうもいかないのよ。一旦疑われると、周りの人達は人殺しかもって疑いの眼で見る。私が殺したんじゃないって証拠も見つからなかったから、いつまでも疑われてる。それが、辛くって…」
美結の頬に、涙が流れた。
「父が亡くなった日も、あの井戸に青い炎が燃えていたの。だから、あれを見ると父に呼ばれている気がして、死にたくなるの…」
「周りの疑いなんて、構うもんか。僕は美結さんを信じてる。だから、結婚しようよ」
美結はまた、首を振った。
「だめよ。私はトキオさんが好き。だから、トキオさんは人殺しの夫になっちゃいけない。人殺しの夫って周りじゅうに思われているとしたら、私が辛いの」
「…」
トキオは、黙ったまま、雨の空を見上げた。
(美結さんは、僕にとって世界で唯一にして最愛の人だ。僕みたいな跛で出来損ないの男を認めてくれたただ一人のひと。絶対に、諦めることはできやしない)
「美結さん」
トキオは美結の両肩を掴んだ。
「それなら、僕が美結さんの無実をご親戚の皆さんの前で、証明してみせる。そしたら、結婚してくれるかい?」
「そんなこと、できるの?」
「ああ。絶対やってみせる」
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