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(三)
(こりゃあ、相当厳しいな。美結さんにとってすごく不利な状況だ)
美結が父親殺しの犯人であるという物的証拠はないが、アリバイ、防犯カメラの映像、争った形跡がないなど状況証拠が揃い過ぎている。
事故の可能性もあるが、そちらの証拠もない。
(僕が美結さんの疑いを晴らすなんて言っちゃったけど、果たしてできるのか…)
トキオは泣きじゃくる美結をかろうじてなだめると、戸外に出た。
美結の父が亡くなった現場を見れば、何か手掛りが掴めるかも、と淡い期待を抱いたからである。
美結が独り住まいをしている住居は、境内にある。戸外に出て十数歩歩くと、本殿に辿り着く。
拍手を打ち神様を拝むと、本殿の向かって右側に伸びている細い道に眼を向けた。
(天神様の細道、かあ…)
トキオは、童唄の「通りゃんせ」の一節を思い浮かべた。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ…
(何か、ぴったりの光景だな)
細い道の周辺は、巨大な老木が生い茂り、昼間でも薄暗い。
その中へ、トキオは一歩踏み入った。
細道の左右には、五メートルほどの間隔で、七つの井戸が並んでいる。
(地下水を汲み上げるためだけなら、一つでいい筈だ。何故七つなんだろう)
トキオは一つ目の井戸を、観察した。
トキオが井戸の近くに来たのは、初めてではない。が、まじまじと観察するのはこれが最初である。
(これまではいつも美結さんと一緒だった。うっとりと美結さんの顔ばかり見てたからな)
七つの井戸はいずれも岩を積み上げた壁で囲まれ、やはり岩で作られた屋根が付いている。
トキオは井戸の囲いの中へ足を踏み入れ、上を見上げた。
(極彩色の絵だ。何か描かれてるぞ)
一番目の井戸の天井には、光輝く赤子を、両親や一族郎党と思われる大人達が見守っている図。二番目は月下に立つ少年が、筆と紙を持って佇んでいる様子。
(天神様って菅原道真という平安時代の実在の人物が、死後神様としてお祭りされたんだよな)
トキオは近くにある中学校の国語教師だ。「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の名歌とともに、道真のことは何となく知っている。
若くして学問に秀で、朝廷内でめきめきと実力を発揮。遣唐使を廃止するなど歴史に残る事跡を残すが、破格の出世を妬む政敵に謀られ、太宰府に流されてそこで没する。一番目の井戸から六番目の井戸の天井画には、その生涯の各場面が順々に描かれているのだ。
(「東風吹かば」の歌って、確か…)
トキオは、その歌の意味を思った。
(晩年無実の罪で太宰府に流された道真が、京の屋敷に咲いていた梅の花に託して、遠方に追いやられた身の上を慨嘆したんだったよな)
無実の罪という点が、どこか美結と重なるように、トキオには思えるのだ。
六番目の井戸の天井画を眺め、七番目の井戸へ視線を移したトキオの眼に、不思議な光景が映った。
七番目の井戸は、美結の父久雄が、転落して亡くなった井戸である。昨晩美結が身を投じようとした現場だ。
(誰か、立ってる…)
濃紺の作務衣を身にまとった人物の後ろ姿が、そこにあった。
昨日と同じように井戸からは青い炎が立ち上り、後姿の人物は前屈みになって井戸の中を覗き込んでいる。
(おいおい。また自殺志願者か?)
トキオは持していた杖に力を込め、作務衣の人物に迫った。
作務衣の人物が腰を伸ばし、後ろを振り向く。
「何だ…。お前か」
トキオは立ち止まった。
「何だはねえだろ」
それだけ言うと、男は再び井戸に向き直り、中を覗き込む。
「この炎天下、そのカッコ暑くねえ? そもそも作務衣を外出用に着るか?」
言いながらトキオは、額の汗を拭った。
昨晩の雨が嘘のように今日は青空が天に広がり、真夏の太陽がじりじりと照りつけている。老木が生い茂る境内は、ミンミン蝉の鳴き声で満ちていた。
「いいんだよ。俺は今、ライフワークの野外観察の最中だ。作務衣はそのユニフォームだからな」
「そうだったな」
吹き出しそうになりながら、トキオは男の作務衣を背中から引っ張った。
作務衣の男の名は、井中カオル。トキオと同い年で、中学校の同僚の社会科教師。
(こいつ、授業も作務衣着てやってるんだよな)
あまりのことに校長が、直々に注意したことがある。
「作務衣を着て授業をしてはいけないという規則は、どこにもありませんからね」
無表情のまま発せられたカオルの一言に校長は二の句が継げず、以後黙認しているという。
そのユニークさゆえ、カオルは生徒の間では結構人気があるらしい。
常に、沈着冷静にして、無表情。トキオはカオルの笑っている顔を拝んだことがない。
(だけど)
トキオは、カオルの横顔をまじまじと見つめた。
(何を考えてるんだか窺い知れねえが…。本当は、いい奴なのかも)
トキオとカオルは、現在の勤務先、高雄中学の同期採用である。
(忘れもしない…。就職して最初の遠足が、近傍の山への登山だった)
急坂を登りあぐね、絶望的な気分で息を切らしていたところ、黙って肩を貸してくれたのがカオルだった。
「野外観察って、何を観察してるワケ?」
トキオはカオルの横に移動した。
「これだよ。これ。面白えな」
カオルが、青い炎を指差す。
「ああ。これか…。不思議な炎だよな」
トキオはカオルの指差す方向を見つめた。
(待てよ)
この瞬間、トキオの脳裏にある思いがよぎった。
(美結さんの無実を晴らす件…。本来なら恋人である俺自身が証明しなけりゃならないトコだが)
トキオは眉間に皺を寄せた。
(どうやら俺一人の知恵では、手に余りそうだ。こいつ、誰にも真似出来ない、閃きみたいなのがあるからな…)
「あのー。井中君」
カオルは青い炎から眼を離し、トキオに向き直った。
「ん? 何? 急に君付けになったね」
冷ややかな視線に一歩下がりながら、トキオは声を絞り出した。
「お、俺。今、俺の人生がかかった大問題を抱えてるんだ。悪いけどちょっと、ヘルプしてくれないか」
「ん? 助けて欲しいの?」
「おう」
トキオは震えながら頷いた。
「いいよ。タダってワケにはいかないけどね」
「ああ。勿論謝礼は弾む」
トキオは口元をピクピクさせながら、頷いた。
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