天使を撮った日

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天使を撮った日

 ぼくの知り合いにプアート・フリッチと言う親友がいるんだ。  プアートは若い頃から絵を描くことが生きがいだったらしく、時々、ぼくを描いてくれる。プアートは昔からスケッチが好きだ。絵の具で描いた絵はほとんどない。前にその理由を聞いたことがある。  「憧れ、と言っておこう」  ぼくの方を見ないで鉛筆を削りながら答えた。  「憧れ? 誰に憧れているんだよ?」  「書斎にある絵はわかるかい?」  「書斎…」  この家にはたくさんの絵が飾っているのですぐに思い出せない。確か―  「花や山のスケッチだったような…」  プアートはぼくが部屋に入ってから初めてこっちを向いた。  「お前はようやく、この家のことを覚えてきてくれたんだな」  にやにやしながら言われて、ぼくはカチンときた。  「ああ、あの古ぼけた絵はカビのにおいがするから鮮明に覚えているよ!」  皮肉を込めてにやにやしながら言ってやった。  「おい、いい加減にしないとただじゃおかないぞ」  プアートの顔から笑みが消えて、凄みのある低い声でぼくに言った。まずい! 怒らせてしまった!  「ごめん。悪気はなかったんだ…本当に、ごめんなさい」  こういう時はぼくが引かないと終わらない。  プアートは決して暴力を振るうことはないが、ヘビのように睨みつけてくる。プアートがヘビなら、ぼくはウサギだ。もっと悪い時にはカエルだ。延々と睨み合いが続く。友達が親からお小遣いを減らされた、外出禁止だ、最悪だ、なんて口にしてたけど、そんなのはぼくにとっては大したことではない。この状況こそ、最悪だ。 プアートに謝ってからも、ぼくの目を見続けている。それから、にやりと笑う。  「まあ、良いとしよう」  固まった体が溶けるように柔らかくなり、自由になった。ようやく、息ができる!  「ただし」  その一言でぼくの自由はまた取られる。ぼくはさっきちゃんと謝ったよな? と疑問に思った。  「一つ、条件がある」  「条件?」  ぼくは眉をしかめた。  プアートはにやっと笑い、机の引き出しから何かを取りだした―  「カメラだ!」  思わず大きい声を出してしまった。  「雑誌で見たことある! すごい! 本物だ!」  どこかの市長の発明品でいろいろ仕掛けがあるらしい。  「常に流行の波に乗らないとな」  またぼくに、にやりと笑いかけてきた。プアートは年のわりに流行に敏感だ。古いものよりも最新のもの方がいいに決まっているそうだ。金持ちの考えにはついて行けないや!  「これをお前に貸す。これで天使を撮って来い」  「え?」  ぼくは目を丸くしてプアートを見つめた。  「ほれ、早くしろ」  プアートが片手でぼくに差し出す。ぼくはゆっくりと近づき、震える手でカメラに触れた。そして、震えは止まらなかったがしっかりと手に持った。  「いいか、天使だぞ」  カメラに見とれているぼくにプアートは強い口調で付け加えた。  「いいか、約束は守れ!」  ぼくはカメラに浮かれていてプアートの約束を忘れるところだった。 「天使」とはなんだろう?  キッチンで紅茶をいれながら考えた。ふと外を見ると小さな庭にハトが一羽いた。まさか、ハトを天使と思う程、プアートははロマンチストではない。もしかして、本当に見えているのか? ぼくにも幻を見ろって言うのか? 考えたらますますわからない。  ぼくはため息をつき、ポットを見つめていた。紅茶の葉からゆっくりと色が流れ、程よい濃さになったので用意していたティーカップを二つに注いだ。カップをお盆にのせ、いただきもののクッキーを用意し、リビングに運ぶ。ぼくが毎日働きに来ると決まって三時にやる仕事。と、言うよりも習慣かな。 リビングにはもうプアートを連れてきていた。分厚い本を読んでいる。  「お茶が入りました」  ぼくはご丁寧に言ってやった。  「そうか」  本を読みながら答えた。ぼくはプアートから本へ視線を落とした。あと少しで読み終わりそうだ。ぼくはプアートから本を借りて読むことがある。楽しいファンタジーの世界もいいが、歴史や文化についての本が好きだ。 まさにプアートが読んでいる本んがそれだ! 読みたくてうずうずしている。ぼくが見ているのをいつのまにかプアートは横目で見ていたらしく、ぱたんと本を閉じて、椅子の向きを変えた。本当に、あと少しでプアートは読み終わったのになあ…。  「ところで、天使は撮れたか?」  プアートがぼそりとぼくに言った。  そうだ! 忘れてた!  「あ、えーと…ごめん、まだなんだ」  「そうか」  さっきと同じ口調で答えた。  「あのさ…」  「なんだ?」  「何かヒントはくれないの?」  ぼくは思い切って聞いてみた。  「お前ならわかるさ」  と、一言。  期待されているのか、あきらめているのか、わからなかった。  「頼むよ! 一つでもいいからさ!」  ぼくは身を乗り出して言った。プアートはぼくをじっと見つめてからため息を付いた。  「わたしはここ数年一人で外に出かけていない」  プアートは目線を窓の外へ向けた。空は分厚い雲で覆われたいる。きっと雨が降るんだろう。  「いつも出掛ける時にはお前と一緒にいた」  そう言うと、紅茶を飲んでクッキーへと手を伸ばした。  「しかも、わたしは外であまり遊ぶ子どもではなかった。常にこの屋敷の中で過ごした。さて、これでわかったな?」  ぼくの方へ目線を戻す。きっとプアートはぼくがにんまりと笑っているのが見えると思う。  「任せておいて! この家の中にあるんだね」  最初は楽勝って思ってた。  けど、実際は探してみると「天使」らしきものは見当たらない。ぼくは天使と言ったら白い翼が背中にある赤ちゃんや女の人ってイメージがあるんだけど、この家に本当にいるのか?  廊下をぶらぶら歩きながら考えていてもわからないものはわからないや。ぼくは近くにあった空き部屋に入った。本当に何もない。よく見ると壁に絵が飾ってあった跡があった。本当に絵が好きなんだな。ぼくは床に座り、カメラを見つめた。ぼくの両手にすっぽりはまる大きさで色は真っ黒。大きなレンズとフラッシュもちゃんと付いている。他にも赤、黄、青の三つのボタンがある。これが「仕掛けボタン」だ。赤はぼんやりと赤い写真が撮れる。黄色のボタンはキラキラした写真が撮れて、青のボタンは水の中にいるみたいな写真が撮れるらしい。色褪せても撮れる機能もあって、こんな玩具みたいなくだらない仕掛けがあるカメラだなんてって思うだろうけど、どんなカメラよりもきれいに撮れるんだ。他のカメラは白黒にしか撮れない。  「ん? これは何だろう?」  何か紙みたいなものが見える。もしかして、ここから写真が出てくる?  ぼくは試しに空の写真を撮ってみた。    カシャ  灰色の空なのでカラーでも白黒でも変わんない。  「もっとマシなのを撮ればよかった」  ぼくはため息を付き、カメラに目線を落とした。その時、ぼくは小さな音を耳にした。とても長い。  ジー…  さっきのところから本当に紙が出てきた。写真だ!  「これが、ぼくが撮った写真か…」  ぼくはカメラから写真を撮り、しげしげと見た。  灰色の空を撮ったはずなのに色があった。水の中みたいだ。きっと魚にはこんな風に空を見ているんだろうな。  「プアートには悪いけど、これはぼくの写真だ!」  あとで母さんに見せてあげるんだ!  「よし! 探すぞ!」  また気合を入れてなおして部屋を飛び出した。  「だめだな」  プアートはつめたく言い、撮って来た二十五枚の写真をテーブルの上にぽんっと置いた。  「どれもわたしの天使じゃない」  写真を横目で見ながら言った。  ぼくはあまりにショックのあまり何も言えなかった。  「あと二枚で撮っておいで」  ぼくの気持ちに関係なく、プアートは注文を増やした。  ん? あと二枚?  「あと二枚って何だよ?」  ぼくは眉をひそめた。  「そのカメラは二十七枚しかフィルムがない。わたしは替えは持っていない。だから、あと二枚だ」  「ええ! そうなの⁉」  「当たり前だろう。物には限りがある」  フン、と鼻を鳴らした。  ぼくは最初に撮った写真を出さなかったから―あと一枚!  「あ、あのさ。もし、もしもだよ? ぼくが天使を撮ってこなかったら、どうなるの?」  「簡単なことだ。約束を守れなかったのだから」  「だから?」  「もう、お前に用はない」  プアートはきっぱりと言った。  「そんな…」  ぼくは青ざめた。ここで働けなくなったらぼくの家族はどうなっちゃうの?  プレッシャーと不安が押し寄せてきた。  ザー…  いつの間にか外は雨だ。まるで今のぼくの心を現しているみたいだ。  ぼくが玄関の近くの階段に座っていた。  さっきプアートに見てもらった写真をもう一度見た。二階の窓から見える木がある角度だと後ろを向いた天使に見えたので撮った写真。これが一番天使らしく見えたので、大丈夫だと思ってたのに。 プアートが天使だと思うもの。  たぶん、絵が関係するんだろう。  しかも、あのデッサン。あの写真をなんとなく撮った写真だけじっと見ていたもんな!  ぼくはその写真を見た。確かに、これには何かありそうだ。並び方に意味がありそう。花や山、木、草原、鳥、バラ…ほんのりと色がついて部屋に飾るのは普通かなって思ってたけど、近くで見た時に繊細な線でぼくはその存在感に気が付くのに時間がかかった。  「書斎に行ってみるか…」  ぼくはつぶやきながら立ち上がった。  ギィ…  突然、誰かがドアを開けた。    この雨の中、わざわざやって来るお客さんなんているんだなって思いつつ後ろを振り向いた。ぼくと同じ金髪を肩のところで切りそろえ、前髪も同じように眉毛の上で切りそろえ、青い瞳でぼくを見つめ、見慣れた笑顔を見せた。  「リアン!」  ぼくはリアンの元へ駆け寄った。  よく見たらリアンの服は少し濡れていた。  「どうしたんだい? こんなに濡れちゃって…」  ハンカチを取り出して、リアンのほっぺや髪、それから服も拭いた。  「お隣さんがね、フリッチさんのところに荷物を届けてって頼まれたの」  「おいおい、どうせまたくだらない彫刻だろ? 雨が上がってからでもよかったのにな」  けらけら笑いながら言ったら、リアンはきょとんとした。  「…お兄ちゃんはルバレンさんの作品の良さがわからないの?」  今度はぼくがきょとんとしてしまった。  「あれのどこがいいんだよ!」  ぼくはあいつが嫌いだ。ぼくよりも三、四歳年が上なくせに子どもみたいで威張っている。見ていてむかつく!  「…そんなことよりも、早く服を乾かさないと風邪をひくぞ!」  ぼくはルバレンのことよりも、妹が風邪をひかないよにしないと!  ぼくはプアートのいるリビングに行った。  「こんにちは、フリッチさん」  「おお、リアンではないか」  プアートはめずらしくうれしそうな口調だ。  「この雨の中、来たのか?」  「はい、ルバレンさんに届け物を頼まれまして」  と、言ってリアンはプアートの元に行き、届け物を渡した。  「あいつもタイミングが悪い奴だな…しかし、羨ましいものだ。雨を感じられるのだから…」  物悲しげに言うプアートにぼくらは何か声をかける前にまた話し出した。  「家の中での生活が長いと、わたしの世界はこんなに小さいものになってしまった。あの時、足を悪くさせてしまったことばかり後悔して、見る世界だけでなく心まで小さくなってしまった…直に知ることを忘れてしまうと、人生はつまらないものになるぞ。わたしみたいになるな…おっと、説教みたいになってしまったな。すまん。 こんなわがっまな年寄りとの約束は果たせそうかな?」  「もう少しかかりそうだけど、約束は守るから」  ぼくはにかっと笑った。  「それは頼もしいな」  さらににやついている。  「ねえ、何の話?」  「あ! そうだった。リアンは知らないよな」  ぼくはわざと今気が付いたように言った。  「教えてよ!」  もちろんリアンはぼくがからかっているのはわかっている。声をあらげて言うのも当然だ。  「えー。説明するの面倒だし」  「何よそれ!」  さすがにカチンときたらしい…  「はいはい、そこまで! これじゃあ堂々巡りだ。2人ともこの本を書斎に置いてきてくれ」  そう言ってテーブルの上にある本の束を指さした。  「はーい!」  ぼくらは同時に同じ調子で返事をした。  「リアン、その本は棚の一番下に入れておいて」  「うん」  ぼくらはてきぱきと本を片付けた。リアンが片付けている姿からあのデッサンに視線を移した。    なんだろう…? 何かここに答えがある気がする。  ぼくは直感でそう思った。 でも、デッサンだけじゃだめだ。頭を使って、考えるんだ。ぼくは六枚のデッサンを見つめた。最初は一枚一枚を見てから、少し離れたところ。全体が見えるように。  「あれ?」  ぼくはよーく全体を見た。  「なんだろう…翼みたいに見える」  枠をあまり気にしないでみたら、見えてきた。  「よし! これを」  と、言いかけた。ふとあることに気が付いた―天使がいない!  「だったら」  ぼくは小さくつぶやき、妹を呼んだ。  「リアン!」  リアンはすぐにぼくの方を向いて、近くまで来た。  「なあに?」  「ちょっとそこに立ってもらえる? すぐに終わるから」  「…うん」  ぼくが何をするのかわからないから不安なんだ。  「ここ?」  「もっと右」  半歩動いた。  「ああ、そこ。じゃ、次はポーズ。顔をこっちに向けたまま体は右に向けて」  「こう?」  「よし! じゃあ、もう動かないでね」  ぼくは床に置いていたカメラを取り、ちょうどいいところに立ちシャッターを切った。  写真は少し不安そうな顔をした…  翼の生えた妹を、天使を撮った。
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