不苦労

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不苦労

 ユウリ親子がアパートのニ階に引っ越して来たのは、ユウリがまだヨチヨチ歩きだった頃だ。俺は小学校中学年だったか。一階に住んでいた俺たち家族は母子家庭のユウリ親子と、何かと交流する機会があった。  特に三人兄弟の末っ子である俺は、俺より年下の兄妹ができたみたいで嬉しかったのだ。  有理花(ゆりか)という名前だと聞いて驚いた。だって、当時の俺は有理とくれば有理数しか連想しなかったからだ。  お母さんに手を引かれて、俺を見上げる女の子。この子の魅力を表すものは有理数というより、無理数であるような気がした。  だが、実は俺はその名前をすごく気に入っていた。  だから、ユウリが保育所に入って、口が達者になってきたら、ユウリというニックネームで読んだ。  当時の俺はユウリがもう少し大きくなったら、一緒に数学の話をしたいと無邪気に思っていた。誰もが俺のように数学好きに育つわけではないのに。    ある日、共同階段でユウリが泣いていた。ユウリが小学校に入学したばかりの頃だ。俺は中三だった。受験勉強の合間にユウリと会話することが、息抜きだった。  ユウリは俺を見るなり言った。  「どう思う?」  肩に少しかかる髪を手で一つにまとめて、真剣な目をこちらに向けた。  その動作の意味がわからない俺は、思ったままを口にした。  「どうって?かわいいよ」  「そうじゃなくて!耳!」  「耳?」  年下の女の子に怒鳴られるなんて初めてだった。  ユウリは言った。  「私の耳、右と左で高さが違う?」  俺は少し離れて見比べた。そう言われてみれば、確かに左の耳の方が下についているように見える。だけど、言われなければわからない。  「確かに、ほんの少しだけ違うね」  俺は言葉を選んで慎重に言った。つもりだったが、ユウリは号泣し始めた。  「やっぱり」  その泣き方は、この世の終わりが来たかのような悲嘆ぶりだった。  「え、え、ユウリ、落ち着いて。体が完璧に左右対称の人なんかいないよ。誰だって多少は違うよ。どうしたの」  「フクロウって」  「は?」  「フクロウ!鳥の!ホーホー言ってる奴」  「うん、わかる。フクロウがどうしたの?」  ユウリは涙を両手で拭うけれど、流れる涙の方が多くて追いつかない。そのまま涙を口にしながら話し始めた。  「フクロウって耳が良いでしょ。あれね、左右の耳の高さが違うから、その差でどこから音がしたのか正確に聞くことができるんだって」  「あぁ、そうなの。知らなかった」  豆知識に頷いてしまった。  「クラスの男子が、だから私のことをフクロウって言い出したの」  やっと、ユウリが泣いている原因がわかった。  「それが嫌だったのか。誰だよ、そんな無神経なこと言い出したの」  「真田君。なんであんな鳥の名前で私をからかうんだろう」  なんでって。こういうのって、言われた方は気づかないもんなのか。普段、髪をおろしているユウリの耳の位置が、なんでクラスの男子にわかるのか。真田か。その名は覚えておこう。  「ユウリはフクロウが嫌いなのか」  「ネズミを捕まえて食べるのよ。私、そんな鳥とは違う」  ユウリは子供に人気のネズミのキャラクターが大好きだった。余計なことを想像したんだろう。ユウリはさらに顔を両手で覆って泣き出した。  「俺はフクロウ、好きだよ。どんな動物だって、何かを食べなければ死んでしまう。そんな理由で嫌ってはかわいそうだよ。動物園でフクロウ見たことあるか?夜行性だから、昼間はあんまり動かない。ボーッとしてる。それが、かわいいんだよ。  それに、フクロウって、不苦労とも書けるだろ。まだ、習わない漢字だろうけど。苦労をしないって意味だ。  俺はユウリが不苦労なら良いなと思う。もちろん、将来、素敵な女性になってほしい。きっと、そのためには、いろんな経験をした方が良いんだろう。いろんな失敗や苦労をね。だけど、願わずにはいられないよ。ユウリがつらい思いをしないようにって」  俺が言い終わると、ユウリは顔を覆っていた両手の間から、ちらりと視線を寄越した。  「龍ちゃんは、キザなことを言うことがあるよね」  「え、今のキザだった?」  ユウリはコクンッと頷いた。もう涙は出てこないようだ。  「数学ヲタクだから、なんかズレてるんだよ」  「うーん、よく言われる」  それ以降、俺はフクロウを見ると、ユウリを思い出すようになった。  この数学塾のロゴマークは、円状にデフォルメされたフクロウだ。  思いっ切りメタボのフクロウだけど、それでも俺はユウリを思い出した。そして、楽しく暮らしていることを願った。  それが、こんな話を持ってくるなんて。
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