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ぽっぽとみっきー
みっきーと出会ったのは、二年生になった最初の日。席がとなり同士だったことがきっかけだ。わたしと彼女は別々の小学校出身で、この日わたしたちは初めてお互いを認識した。
一年生のときは、人見知りのわたしは同じ小学校から来た子たちとしかしゃべることができなかった。今度だってみっきーが積極的に話しかけてくれなければ、今ごろ友だちになっていたかどうかもわからない。
「ぽっぽちゃん」とみっきーはわたしを呼ぶ。今まで「波戸崎さん」とか「凛ちゃん」と呼ばれたことしかなかったから、初めて〝あだ名〟というもので呼ばれたときのうれしさは、今でも覚えている。
「ハトザキやから、ぽっぽちゃん。かわいいやろ?」
「そのハトとちゃうねんけどなあ……」
とわたしは口をとがらせた。内心の弾む気持ちを隠しながら。
みっきーは明るくて、しりごみしない性格で、すぐに誰とでも打ち解けられる子に見えた。だけど、不思議と特定の仲のいい友だちというものがクラスにはいなかった。
わたしたちはなぜか気が合い、一緒に給食を食べ、途中まで一緒に下校し、休みの日にはお互いの家に遊びに行ったりした。
「波戸崎さんさあ……」
あるとき、クラスメイトのおしゃべり好きな小田さんが、わたしに近づいてきて言った。
「三木さんのお姉さんのこと、知らんの? 不良やねんで」
不良。一瞬、なんのことかと思った。
不良とは。先生にかくれてタバコを吸ったり、お酒を飲んだり、無断で学校をサボったり、深夜遅くまで家に帰らない、そういうたぐいの人間のことを指すのだろうとは思うが――。
「……うん、まあそんな感じやろ」
「こわい人なん? 小田さん見たことあるん?」
「わたしは見たことないけどさ。波戸崎さんは知らんやろうけど、うちらが小学生の頃からの有名な話やねんで。警察のお世話になったこともあるらしいで」
なんでも、みっきーとは年が離れているようで、現在はすでに成人しているらしい。
だからなんなんだろう、とわたしは思った。クラスメイトの中でみっきーを敬遠している人がいるのは、その噂が原因なのだろうか。みっきーのお姉さんが不良だから、みっきーにも近づかないほうがいいんじゃないか、という理屈は理解できるような気がしたけれど、やっぱり理解できなかった。
「みっきーのお姉さんて、不良やったん?」
わたしの聞き方がストレートすぎたのか、みっきーは面食らったようだった。「なにそれ、あはは」と、笑い飛ばしてくれることも予想していたが、そうはならなかった。
「ああ……それなあ……。まあ、そうやったかもね」
彼女はさみしげに笑った。傷ついたような笑い方だった。友だちだと思っていたわたしに話題にされたからなのだろうか。わたしは自分でも空気の読めないところがあると自覚しているけれど、けっして神経が太いわけではない。
「あんな、わたしにとってはべつに大したこととちゃうんやけど、いちいちわたしにそういうこと言いにくる人がいんねん」
「そっか……」
小学生のとき、女子の間の噂話が元で友だちを失ったことがある。特別仲がよかったわけではないが、その子とはそれ以降、会話を交わすことはなくなった。つまらない、些細な噂話だった。
中学生になっても女子はそういうたぐいの話が大好きで、彼女たちの意見に異を唱えればたちまちグループから疎外されることになる。ああ、またか、とうんざりする。
「あたしのお姉ちゃんは、六つ年上やねん」
窓から校庭を見下ろして、みっきーはぽつりとつぶやいた。
「あたしが小学校にあがる頃には、お姉ちゃんは中学生。小学校を卒業したらお姉ちゃんは高校を卒業。お姉ちゃんがどんな学校生活を送っていたのか、よく知らんねん。まあ、学校さぼったり、かくれてお酒飲んでたのは知ってるけどね」
「ふうん。それじゃやっぱり」
「不良?」
みっきーは、今度は屈託なく笑った。わたしもそれを見て笑った。
そんな姉だけど、みっきーは好きなのだと言ってほほ笑んだ。彼女にとってはやさしい姉なのだそうだ。
わたしには年下に生意気な弟がいるだけなので、年上の姉や兄がどういう存在なのかは想像するしかない。
初めて喫茶ノユリを訪れたのはみっきーの付き添いという名目だった。
そこは表通りから少し奥まった場所にあった。レンガ敷きの細い小径を通って突きあたったところに、お店の入り口が見える。脇には緑が鮮やかな草や、名前の知らない小さな花がまばらに咲いていた。
軒下から吊り下げられた小さな看板に『喫茶ノユリ』と細めの字体で店の名前が書かれていて、入り口のドアマットも同様のデザインにしつらえてある。
ガラスのはまったドアの奥は薄暗くてよく見えない。
わたしは、まるで不思議の国の入り口かと錯覚するような謎めいた空気を感じ、そこに足を踏み入れるのをためらったほどだった。
扉を開けると軽やかに鳴り響くドアベルの音。カウンターの奥から初老の男性が「いらっしゃい」と声をかけてくる。
「――な、すてきやと思わへん?」
みっきーが声のトーンを落としつつも、興奮気味に同意を求めてくる。
「たしかに、すてきやね……」
素直にわたしはそう感じていた。真昼なのに店内は薄暗く、それが陰気にも感じず妙に気分が落ち着くのだ。初めて来る場所だからもっと緊張するものと思っていた。
店に入る間際の、あのためらいの気持ちはなんだったのか。それがただの杞憂だったということも、済んでみれば不思議に感じる。
客はわたしたちふたりだけだったので静かだった。
振り子時計のコチコチという規則正しい音色が心地よく、しばらくその音に意識を傾けていた。
「ご注文、おきまりですか」
店主が水の入ったグラスを運んできてくれて、ぼうっとしていたわたしはあわててメニューを開いた。対して、みっきーは落ち着いたものだった。
「あたしはミルクティーで」
いつの間に決めたのか。彼女はほとんどメニューを見ないで言った。わたしはますます焦った。
「そ、それじゃわたしもミルクティーで……」
「はい、ミルクティーふたつね」
目じりにしわを作り、細められた目のやさしい光。
わたしの胸にあたたかいものが広がった。
待つ間、わたしはメニューを眺めたり、壁にかけられた絵を見たりしていた。
みっきーはなにやらそわそわしている。目の動きもきょろきょろとして、先ほどの落ち着きはなくなっている。
「ノユリってどういう意味やろ。野の百合かなあ」
わたしがひとり言のようにつぶやくと「ええ、そうです」という声が離れたところから返ってきたので、びっくりしてしまった。聞こえていないと思ったのだ。
しばらくして、ふたり分のティーカップが運ばれてくる。それはあたたかな湯気をたてている。
「聖書の言葉からとったんですよ」
わたしは、店主がノユリの言葉の由来について言っているのだとわかった。
「『なにゆえ衣のことを思い煩うや。野の百合は如何にして育つかを思え、労せず、紡がざるなり』」
文語体だ。わたしはまるで意味がわからず、向かいの友人の顔を探るように見やる。
わたしとみっきーはどんな顔をしていたのだろう。店主はやさしくほほ笑んで、かみくだくように話してくれた。
「野の百合は、自分で着飾っているわけでもないのにあんなに美しい。神さまは、ちっぽけな野の百合でさえそのように美しく造られたのだから、わたしたちはそれ以上に美しく、神さまにとって価値のある存在です。だから、われわれ人間が必要とする着るものや食べるものはみなご存知だし、それらを備えてくださるんです。と、そういうことが書かれた聖句ですよ」
「へえ……」
正直に言って意味はよくのみこめなかった。神さまがこの世に存在するのかどうか、わたしはまだ考えたことがなかった。大人って難しいこと考えるものだ。わたしも大人になったら、こういう難しくてちょっとすてきなことを、人に言える人間になれるのだろうか。
そのとき。
――ニャーン。
猫の声がした。たしかにした。わたしのいつもの、あの空耳なんかではない。
わたしははっとなってまわりに目を走らせた。
「きたきた!」
みっきーが弾んだ声を出したのと同じくらいに、足元にするりと近寄ってくる見覚えのある美しいフォルム。
「え? ――えっ?」
「どこにいたの、シャロムー」
わたしが取り乱すのをよそに、みっきーは今まで聞いたことのないような猫なで声で、その猫を抱き上げた。
「かわいこちゃん、つーかまーえた! 今日はね、シャロムちゃんに会いに来たんでちゅよ。あ。今日も、か」
「……みっきー?」
彼女の赤ちゃん言葉にわたしはちょっと引いていた。でも――。
「猫のことなんてみっきー、ひと言も言ってなかったやん!」
「そうやったっけ?」
そらとぼけている。わたしは店主を振り返る。
「あの、この猫は、このお店の……?」
「シャロムといいます」
みっきーもたしかにそう呼んでいる。灰色地に黒の縞模様。胸の部分は真っ白だ。品のあるいい顔つきをしている、女の子だろうか。
「変わった名前ですね」
「ヘブライ語で〝平和〟という意味でしてね」
「そうなんですか?」
ようやくみっきーがシャロムから目をはなして、こちらを向いた。
「ええ名前もろたんやな、シャロムちゃん」
額にある、Mの字のような模様の部分をかりかりと掻いてやっている。
「ミルクティー、冷めないうちにどうぞ。猫でも眺めながら、ゆっくりしていってください」
そう言うと店主は、カウンターのほうへと歩いていった。
――コチコチコチ。
振り子の音が響いている。かすかに、ぐるぐるという音がそれに加わって聞こえてくる。この音は猫の喉から生じるものだとわたしは知っている。
みっきーが、その大きな目でわたしをじっと見つめてきた。
「どう? 触ってみたい?」
意地悪なことを聞く。触りたいにきまっていた。
みっきーは黙って猫ごと立ちあがると、わたしの膝の上にそのやわらかい生き物をそっと置いた。猫は嫌がりもせず、一度くるりと膝の上で一回転し、優雅に座りなおすのだった。
――やわらかい。猫ってこんなにやわらかいんだっけ。
両手で猫の丸い体を包むように触ると、ふわふわとした感触が手のひらから伝わってくる。
「シャロム」
小さく名前を呼ぶと、猫はわたしを見上げた。目はグリーンだった。
「この子、自分の名前わかってるんやね」
「うん。ぽっぽちゃんとこの猫ちゃんは違ったん?」
「…………」
みっきーのその言葉で、わたしはやっぱりな、と得心した。
少し間があいたことを不思議に思ってか、みっきーはわたしの顔の色をたしかめるようにうかがっている。
「……うちの猫は名前呼んでもこおへんかったな。名前を認識してなかったのか、それとも、わかっててゆうことをきかんかったんか……。そのときによっていろんな呼び方してたから混乱してたのかも、っていうことも考えられ……」
わたしは、ぐっと喉の奥に力を入れた。まずい、と思った。
身体の中に急激に流れてくるものを押し返すようにして、自分の感情に抵抗した。
涙がこみあげてきそうだったのだ。
まったく、お母さん。余計なことを言って。わたしは猫のことをみっきーに話したことなんて一度もないんだから。
シャロムがわたしの膝の上で喉を鳴らしている。とろんとした目で、またわたしを見上げてくる。
「……ありがとうな、みっきー」
わたしはシャロムを撫でながら、やっと声を出した。
「ん、なにが?」
とぼけているのか、本当にわかっていないのか。
出会って間もない友だちのことを、わたしはまだよく知らない。お互いが、まだよく知り合っていないのだ。そんな相手に対して彼女は心をくだき、元気づけようとしてくれた。
わたしは今まで、そんなやさしさを受けたことはなかった。そんなふうに、誰かのためになにかをしたことも。
「このお店な、お姉ちゃんが最初に連れてきてくれてん。中学の入学のお祝いに。そのとき食べたホットケーキ、美味しかったなあ。ここのホットケーキ二枚重ねやから、今度来たとき半分ずつせえへん?」
無邪気にみっきーは笑顔を向けてくる。
「もう……」
「え、なにがもう、なん?」
「だってさあ」
「ぽっぽちゃんって、ときどき言うやんな、もうって。そんなにもーもー言ってたら牛みたいやで」
「もう、なによそれ」
「ほら、言った」
「もー……あ、じゃない」
「あはは、おもしろ!」
「うるさいなあ……」
わたしは妙に照れくさくて、心とは裏腹になんでもないふりを装って、シャロムの喉から響いてくる幸せな音をいつまでも聴いていた。
窓の外で、小鳥が澄んだ声でさえずっている。
春もまた移ろっていく。
桜はとうに花を散らせ、葉桜へと姿を変えた。
若葉がみずみずしく輝く季節は、もうそこまできている。
新しいことをはじめたり、新しい人と仲良くしたりは苦手だった。自分は臆病で、それに気づかないふりをして、いつも途方に暮れている。
けれども、勇気を出した結果は必ずしも徒労に終わるわけじゃなかった。
不思議の国への扉をこわごわ開けたときみたいに、その先に思いがけない幸福が待っていないとも限らない。
なにか、新しいことをはじめてみるのもいい。勇気を出してもう一度、猫を飼ってみるのも――。
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