赤い宣告

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赤い宣告

「ねえ、真弘(まひろ)。私ね、一ヵ月後に死んじゃうかもしれない」  恋人の夏乃(かの)さんが、その場の思いつきで突拍子もないことを言い出すのはよくあることだ。それにしても、今日の冗談はいつにも増して性質(たち)が悪い。悪ふざけでも、そんな縁起でもないことは口にしないでほしかった。面白くなくて、むすっと唇がとがる。 「へえ、そうなんですね」 「えええっ! いくらなんでも、反応薄すぎじゃない!? 愛しの恋人があと一ヵ月で死ぬって言ってるんだよ? どうでもいいの!?」 「夏乃さん、笑えない冗談はそろそろやめてもらえませんか。俺、そろそろ怒りますよ」 「あっ、愛しのってところは否定しないでくれるんだ。えへへ」 「……俺、明日は一限から講義が入っていて朝早いんで、そろそろ帰りますね」 「私だって朝から会社だよ!」 「でしょ? 互いの為にも、今日は早いところ帰宅すべきじゃないでしょうか」 「まだ二十時(はちじ)半じゃん!」  夏乃さんがテーブル越しに身を乗り出して、ゆるくウェーブのかかった栗色の髪が波打った。垂れ目気味の瞳が精一杯に吊り上がって、ジトリと俺をねめつける。  これは付き合ってから知ったことだが、彼女はおっとりしていそうに見えて意外と頑固なところがある。今のように眉間にしわが寄っている時は、頑として譲らないモードに入っている証だ。   小さくため息を吐いて、目の前の珈琲を啜る。想像以上に苦くて、渋い顔になってしまった。『社会人になってから無糖で飲めるようになったんだ!』と自慢してきた彼女に合わせて、咄嗟に見栄を張ってしまったのが敗因だったか。 「……一応、聞くだけは聞いときますけど、さっきのジョークは一体どういうつもりですか? 言っておきますけど、一ミクロンも面白くなかったどころか興醒めでしたよ」 「本当に冗談だったら、良いんだけどね」  夏乃さんの表情に、陰りが差す。  「昨日ね、夢を見たの」 「はあ」 「夕暮れ時にね、神社の石段に腰掛けながら、紅い着物の女の子とお話している夢なの。黒いおかっぱの、ぞっとするほど綺麗な顔をした子だった」  そのスピリチュアルな内容に早くも目が据わりかけてしまったが、彼女は俺の白けている様子に気づいた風もなく、滔々(とうとう)と話を続ける。 「『お姉さん。今、とっても幸せそうね』って話しかけられたから、『そうね。仕事には概ね満足しているし、何よりも、ちょっと生意気だけどなんだかんだで優しい恋人にとっても愛されているから』って答えたんだけど」 「真顔で恥ずいこと言うのやめてもらえませんか」 「『うん。でもね、その幸せは長くは続かないから、今を大切にするんだよ』って言われたの」  長くは続かない? 「『どういうこと?』って聞き返したら、彼女は私を指差しながら言ったわ。『お姉さん。あなたは一ヵ月後、この世で一番大切にしている赤いものを失うよ』って。もっと詳しく聞こうとして身を乗り出した瞬間に、夢から醒めたんだ」      夏乃さんはいったん唇を閉じると、渇いた舌を湿らすように珈琲を手に取った。眉間にしわを寄せることなく、すました顔をして飲んでいるのがちょっと癪だ。  彼女はマグカップをテーブルに置きなおしながら、そっと瞳を伏せた。 「あの子、私の心臓のあたりを指さしていたわ」  だから、心臓を失って死ぬとでも言うのか?     馬鹿らしいにも程がある。     どうして、夢の中に出てきた少女に告げられた言葉を、こんなにもあっさりと全面的に信じることができるのか。百歩譲ってポジティブな内容ならともかく、そんな不吉な予言を抵抗もなく受け入れるなんて、狂気の沙汰もいいところである。 「夏乃さん、いい加減にしてください。まさか、そんな戯けた話を本気で信じているんですか?」 「夢って、起きた時にはあやふやになっていて、鮮明に思い出せないことが多いでしょ? でもね、昨日の夢は、今でも瞼の裏にハッキリと思い浮かべられるの」 「だから、なんだっていうんですか。まさか、たったそれだけの理由で、信憑性があるって言い出すんじゃないでしょうね」 「ふふ」 「何がおかしいんですか」  苛々が募って、強めの言葉が滑り出る。彼女が驚いたように丸い瞳を見開いた時、決まりが悪くなって口ごもった。訪れた沈黙が、周囲の客の喧噪を引き立てる。  夏乃さんは黙り込んだ俺を見つめながら、拗ねた子供をなだめるように優しい声色で言った。 「ううん、笑ったりしてごめんね。ただ、真弘が必死に否定してくれたことが、なんだか嬉しくて」  心臓が、ドキリと波打つ。    そんなの当たり前じゃないか、信じる方がどうかしている。    そう思うのに、彼女の覚悟を決めているような表情を目にして、言葉が喉の奥に引っ込んでしまった。 「考えてみたら、信じろって言う方が無理な話だよね。でもね、私には、あの夢に何の意味もないとは思えないんだ。どうしてなんだろうね」  その夜は、家に帰り着いた瞬間、身体がやけに重たくなってソファにもたれている内に寝てしまった。そうはいっても、深夜三時頃になって目が冴えてきてしまったので、シャワーを浴びてからまたベッドで眠りなおすことになったのだけれども。 *  その翌日、またしてもささやかな事件が起こった。  寝ぼけ眼をこすりながら大学の講義に出て、学校近くのラーメン屋で昼食を取ってから早々に帰宅したのだ。  昨夜、変な時間に眠ったせいで気怠いから、少し昼寝でもして日が落ちてきた頃に夕飯の買い出しに出かけよう。そんなことを考えながらオートロックを抜けて、部屋のドアに鍵を差し込んだのだが――  ――おかしい。何故、玄関に女物のパンプスが揃えて置いてあるのだろう。目をこすってみたけれど、見間違いではなさそうだ。 「……なんで、来てんの?」  俺が不在の間に、この部屋に入ることのできる真っ当な人間は一人しかいない。順当に考えれば合鍵を手渡している恋人、つまりは夏乃さん以外にありえないということになる。  問題は、どうしてこの時間は会社にいるべきはずのあの人が、こんな真昼間から俺の家に来ているのかということだ。  急いでスニーカーをほっぽり出して、リビングへと繋がる開き戸をがらりと開け放つ。   「あっ! おかえり、真弘」  夏乃さんは、俺のベッドを占領して堂々と寝っ転がっていた。身に着けているワイシャツとスカートが皺になることも厭わずに、こちらの気まで抜けてしまいそうな笑みを浮かべている。正直に言って、クソ可愛い。しかし、今は流されている場合ではない。  ベッドの端に腰を下ろしながら、彼女を見下ろす。 色素の薄い茶色の瞳に、自分の困惑顔が映りこんだ。 「夏乃さん、会社は?」 「そんなんどーでもいいれしょ」 「良くなくない? っていうか、呂律回ってないし。もしかして酒飲みました?」 「うん! 退職祝いに、一杯飲んできた!!」 「へえ。……って、退職祝い!?」 「会社、やめてきちゃったー。てへ」 「はあああああ!?」  予想だにしなかった突然の辞職宣言に、開いた口が塞がらない。てへ、じゃねーよ。まだ学生の俺が思うのもなんだけど、会社ってそんなヘリウムガス並に軽いノリでやめられるもんなのか? いや、多分だけど、違う。 「えっと……全く頭が追いついてないんですけど、夏乃さん、実は仕事で悩んでたんすか?」 「別に? むしろ、良い会社だったなぁって感謝してるぐらいだよ。でもさ、冷静に考えて、あと一ヵ月で死んじゃうのに働いてる場合じゃないよなぁって思ったんだよね」 「軽率すぎる! 馬鹿なんですか!? 一ヵ月が過ぎた頃には、ぜえっっったい今の自分を呪い殺したくなってますよ!!」  退職理由が夢のお告げだなんて、あまりにも前代未聞すぎるだろ! 転職活動の時、どうするつもりなんだよ!   ぜえはあと息切れしながらまくし立ててみたものの、当の本人は全くと言っていいほど応えている様子がない。きょとんと瞬きをしながら、ふわふわ笑っている。 「真弘は心配性だなぁ。私のママみたい」 「夏乃さんがびっくりするぐらい後先考えなさ過ぎなだけです! 今からでも会社に戻って、『さっきはどうかしてました! 辞職を取り消させてください!』って土下座してくるべきですよ……!」 「そんなことしないよ。もし死ななかったら、また、そのとき考えれば良いもん」  のっそりと起き上がった夏乃さんが、背後から俺の腰に両腕を回す。 「たしかに真弘が言うように、あれはただの何の意味もない夢に過ぎないのかもしれない。でも、そうなった時は、会社を辞めたことをちょっぴり後悔するだけ。ただね、もし本当だったら、後悔することもできないんだよ」  考えたくもないけれど、もし、本当にこの温もりを失うのだとしたら――俺はどうなってしまうのだろう。想像することさえできないぐらいに、夏乃さんが傍にいることは当たり前なのに。  彼女の一回りほど小さい手に、自分の手を重ね合わせる。伝わってきた確かな熱に、不安でさざめき始めていた心が凪いだ。  大丈夫。夏乃さんは、生きて、ちゃんとここにいるじゃないか。  「甘やかすのは一ヵ月だけですよ。来月になったら、ちゃんと仕事探してくださいよね」 「はーい」 *  仕事を辞めた夏乃さんは、気がつけば俺の部屋に棲みついていた。  彼女が家にやってきてから、もうすぐで一週間が経つ。殺風景だった冷蔵庫は随分と賑やかになり、無造作に散らかっていた漫画はきちんと本棚に納まるようになった。  もちろん、とてもありがたいことだし嬉しいのだけれども少し複雑だ。ちゃっかり夜ご飯まで作ってもらっているけれど、こんなに至れり尽くせりで良いのだろうか。 「夏乃さん。別に、気遣わないで良いんすよ」 「なにが?」  彼女が作ってくれたハンバーグの最後の一欠片を口に運ぶ。手料理ならではの素朴な味わいと温かみが、バイトで疲弊した身体に染みわたった。 「考えなしだったとはいえ、折角、会社辞めたんですし。今は思いっきりやりたいことだけやれば良いじゃないですか。家事は、俺が適当にやっておきますし」  この美味しい手料理を手放してしまうのは、名残惜しいけれども。一足先に社会人になった彼女の貴重な羽休めの時間を、学生の身分の自分が邪魔をしたくはない。  夏乃さんは瞳にやわらかい光を滲ませながら、難しい顔をする俺に微笑みかけた。   「やっぱり、真弘はやさしいなぁ。好きだなぁ」 「……夏乃さんって、結構ちょろいですよね」 「でもね、大丈夫だよ。これも、私がやってみたかったことの一環だから」 「どういうことっすか?」 「真弘のお嫁さんごっこ」 「ぶふっ!」  追い打ちをかけるように「あー、照れてる! かわいいなぁ」と指摘され、頬がさらに熱を帯びる。早く話を逸らしてしまいたくて、席を立った。 「ごちそうさまでした。すげーうまかったです」 「ほんとう? 嬉しい!」  当然のように皿を片付けようとする夏乃さんの手から奪い取って、流しに持っていく。 「せめて、皿ぐらいは洗わせてください」 「良いの?」 「当然です」 「ふふ。真弘は、良い旦那さんになるんだろうなぁ。あーあ、本当にお嫁さんになれたら良いのに」  まるで、それは叶わないけどと言っているように聞こえて、ムッとした。 「なに言ってるんすか。なれるに決まってるでしょ」  スポンジに洗剤を含ませながら食い気味に返答をすると、立ちあがった夏乃さんが隣にやってきて俺の顔を覗き込んできた。 「ねえ。それって、もしかしてプロポーズ?」 「……俺は、夏乃さん以外の女性を嫁にもらう気はないです。まだ学生のくせに、なに大層なこと言ってんのって思われそうだから、ずっと言えなかったけど」  口にしたあと急に気恥ずかしくなって、食器を凝視し続けた。水道の蛇口から漏れる水音が、やけにうるさく響いて聞こえる。  いつまで経っても返答がないことに焦り始めた、次の瞬間。  隣から急に彼女の気配が消えて、一瞬、何が起こったのか全く理解できなかった。  夏乃さんは、崩れ落ちるようにしてその場に(うずくま)っていた。  突然のことに、全身からサーッと血の気が引いてゆく。 「夏乃さんっ! 大丈夫ですか!?」  慌ててしゃがみ込み、華奢な背中をさすった。元々白い顔は、このまま透けて消えてしまいそうなほどに蒼白くなっていて、心臓が嫌な風に音を立てる。 「ご、めん……。大丈夫よ。少し、眩暈がするだけで」 「顔、真っ白じゃないっすか! どう見ても、大丈夫じゃないでしょ!!」 「ううん。ちょっと、貧血気味」  どう見ても苦しそうなのに口では強がっている様子に痺れを切らして、有無を言わさずに彼女を抱き上げた。 「ええっ!? ちょっと、なにやってるの!」 「俺がベッドまで運びますから、今日はもうゆっくり休んでください。安静にしていないとダメです!」  夏乃さんのささやかな抵抗を無視して問答無用でベッドに横たえさせると、彼女は憔悴している俺の顔を見上げながら力なく笑った。 「もう、大袈裟だなぁ。真弘は、本当に心配性なんだから」  彼女は糸が切れた人形のように、すぐ寝入った。  その夜は、夏乃さんにベッドを譲り、自分はソファで眠ることにした。  寝ようとして瞳を閉じた時、一週間前の彼女の発言が頭をよぎった。 『ねえ、真弘(まひろ)。私ね、一ヶ月後に死んじゃうんだって』  体内をめぐる血が、すっと冷たくなる。    抱き上げた時、夏乃さんの身体は、想像していたよりもずっと軽かった。  例えばの話、だけれども。  もし夏乃さんが、夢のお告げなんかではなく、他の根拠を基にあんなことを言い出したのだとしたら――ダメだ。これ以上、考えてはいけない。本人だって、ただの貧血だと言っていたじゃないか。いくらなんでも考え過ぎだ。  そう思いたいのに、芽生えてしまった黒い疑念をすっかり晴らしてしまうこともできなくて、喉が締め付けられたようになる。寝苦しくて身を起こしたら、部屋着がすっかり汗でベタついていた。 *  その翌日は、トーストの焼ける香ばしい匂いで目が覚めた。 「おはよう、真弘。トースト焼けたよー」 「夏乃さん! もう、体調は大丈夫なんすか?」  跳ね上がって身を起こしたら、彼女は何事もなかったような顔をして席についていた。鼻唄を口ずさみながら、意気揚々とバターを塗っている。 「異常なし! もう、すっかり大丈夫よ。昨日はありがとうね」 「……本当ですか?」 「疑り深いなぁ」 「分かりましたよ、夏乃さんを信じます。でも、絶対に無理だけはしないでくださいよね」 「はーい」  それからは彼女の言葉通り、昨夜のような肝の冷えるハプニングは特に起こらず、順調に日々が過ぎていった。  今は夏乃さんの人生の夏休みなのだと割り切ることにして、とことん彼女のやりたいことに付き合った。牧場に行ったり、バンジージャンプに挑戦したり、プリクラを撮ったり……特に、後者二つに関しては、こんな奇妙な状況になってでもいなければ死んでも付き合わなかっただろう。  そうして過ごしている内に、夏乃さんが俺の家にやってきてから、あっという間に一ヵ月が経とうとしていた。彼女と暮らすようになってから、いつにも増して時の流れが早くなったように感じられる。  今日で、ちょうど一ヵ月。     午前の講義を終えて、すぐにキャンパスを飛び出た。    夏乃さんが待っている家へと帰り着く為に。  ここ最近で、彼女が貧血を起こして倒れたのはあの一度きりだ。夏乃さんは、今日の朝だって、いつもと何ら変わりなく朗らかに笑っていた。まるで、一ヵ月前に自分で言ったことなんて忘れてしまったような顔をして。  ほら。だから、言ったじゃないか。    俺の思っていた通り、最初から何の心配も要らなかったんだよ。  そうだ。今日は、夏乃さんにケーキを買って帰ろう。明日から就職活動を始めることになる彼女へのエールの意味をこめて、果物をいっぱいに敷き詰めてあるフルーツタルトを贈るのだ。  瞳を輝かせて子供みたいに喜ぶ夏乃さんの顔を思い浮かべながら、雑踏に紛れて、横断歩道を渡り始める。  照りつける日差しの強さに眉をひそめた次の瞬間、前から歩いてきてぶつかりそうになった男の手が、俺の胸元に吸い込まれていった。  比喩ではなくて、実際に。  その手には、鋭利な刃物が握られていたからだ。  突如、焼けた釘を差し込まれたかのような壮絶な痛みに襲われて、身体がくの字に曲がった。膝から地面に崩れ落ちて、倒れ込む。勢いよく噴き出し続ける鮮血が、あっという間に、何もかもを赤黒く染めてゆく。 「きゃあーーーーーーっ!!!!!!」  目の前の女性が発したつんざくような悲鳴を、随分と遠くの世界の出来事のように感じた。霞んでゆく意識の中、愛おしい彼女の言葉が耳の奥から蘇る。 『お姉さん。あなたは一ヵ月後、この世で一番大切にしている赤いものを失うよ』  彼女が、この世で一番大切にしている赤いもの。    ナイフの突き刺さった箇所から溢れ出て止まらない、生温かい自分の血液。  そうか。    なんだ。そういう、ことだったのか……。  夏乃さん。信じてあげられなくて、ごめん。    お嫁さんになれるに決まってるだなんて、酷い嘘を吐いてごめん。    それから、本当に自分勝手な奴でごめん。これからあなたを遺して死ぬっていうのにさ、俺、泣きたいぐらいに幸せを感じてしまったんだよ。  出逢ってくれて、ありがとう。    あなたに、失ったもの以上の幸いが降り注ぎますように。  意識を手放す最後の瞬間に包まれていたのは、これから死ぬ人間とは思えないほど安らかで満ち足りた感情だった。 【完】 
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