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平成元年
駅前の居酒屋は仕事帰りに立ち寄るサラリーマンの喧騒で満たされている。スーツ姿の客ばかりの中、カウンターには薄汚れたTシャツの男が一人。深刻な表情を浮かべていて、落とす視線の先には通帳が置かれていた。口座名義は「高梨 大輔」、本人の物であるが残高の欄は減少の一途で、最下段は¥4,649と貧相な数値が記されていた。
高梨は数字をまじまじと見、チッと舌打ちをした。
「夜露死苦かよ……来月まで生きてけねぇな、こりゃ」
それから決心したように居酒屋を見回した。客は皆盛り上がっているようだし、店員は慌ただしくテーブルと厨房を行き来している。口に楊枝を挟んだ高梨のことは、誰も気に留めることはない模様だ。
――よし、チャンスだ、楽勝だぜ。
高梨は組んだ足を解き、通帳を鞄に仕舞い、カウンターの席から尻を浮かせた。そして両足にぎゅっと力を込めた。
その瞬間。
逃げ道を塞ぐように人の姿が現れたのだ。
「おっと高梨さん、食い逃げは犯罪ですよ?」
そう言って手掌を高梨に向け、静止を促した。
――何だこいつ? こんな奴、どこにも居なかったぞ。
目の前に現れた人物は、真紅の燕尾服を身に纏う若い男性だった。齢二十半ばくらいだろうか、自分より一回り若く見える。ウェーブのかかった銀白色の髪は艶やかで、漆黒の小さなシルクハットが斜めに乗っている。その身なりは奇抜で、到底日本人とは思えなかった。
高梨は一瞬、動揺したが、すかさず元の席に腰を据え言い訳を口にする。
「逃げるつもりなんざ無いぞ、トイレ、そうだ、俺はトイレに行きたかっただけだ。生理現象なんだから止めてくれるなよ!」
すると真紅の燕尾服を纏うその男は隣の席にどっかと腰を下ろし、頬杖をついて高梨を鋭い視線で突き刺した。
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